夜探偵事務所

どれくらい無我夢中でバイクを走らせたのか、健太には分からなかった。
背後から追いかけてくる、あの、甘美な微笑みを浮かべた亡霊。その幻影から逃れるように、ただ、ひたすらに、アクセルを捻り続けた。
やがて、闇の中に、予約していたビジネスホテルの、無機質な看板の明かりが見えた時、それが、まるで、この世の唯一の灯台のように思えた。
体は、鉛のように重く、思考は、恐怖で完全に麻痺している。彼は、亡霊のように、ふらふらとバイクを停めると、震える手で、フロントでのチェックインを済ませた。
部屋のドアを開け、内側から、チェーンと鍵を、ガチャリ、ガチャリ、と、何度も確認するようにかける。
ようやく、一人だけの空間。安全な、場所。
健太は、その場に、へたり込んだ。
(洗わなきゃ……)
自分の体にこびりついた、あの女の、血と、死の匂いを、洗い流さなければ。
ヘルメット越しに伝わった、頭蓋を砕く、あの、生々しい感触。その全てを、記憶から、消し去ってしまいたかった。
健太は、シャワールームへと、直行した。
熱い湯を、頭からかぶる。その、熱さが、少しだけ、現実感を、取り戻させてくれるようだった。
ゴシゴシと、肌が、赤く、ヒリヒリするのも、構わずに、体をこする。汚れを、記憶を、恐怖を、全て、洗い流してしまいたかった。
目を閉じると、あの、血まみれの光景が、蘇る。
健太は、かぶりを振って、その残像を、必死に、追い払おうとした。
ふと、足元に、視線を落とす。
タイルを流れていくはずの、透明な水が、排水溝の周りで渦を巻きながら、どこか、薄気味悪い、ピンク色に、染まっていた。
(……え?錆び、かな……)
だが、その、ピンク色は、瞬きをする間に、赤みを増し、やがて、おびただしい量の、本物の血となって、健太の足首を、ぬるりと、洗った。
「うわっ……!」
悲鳴を上げて、後ずさる。
その時だった。
パッ……パッ……パッ……。
シャワールームの、天井の電気が、まるで、心臓の鼓動のように、不規則に、チカチカと、明滅を始めた。
ストロボライトに照らされたように、一瞬だけ、バスルーム全体が、真っ赤に染まる。
健太は、パニックになり、シャワーを止めると、フラフラになりながら、シャワールームから、転がり出た。
しかし、彼の体から滴り落ちる水滴は、床に、点々と、赤い染みを作っていく。
もう、限界だった。
恐怖と、疲労で、膝から、力が抜けていく。
視界が、ぐにゃりと、歪んだ。
ぷつり、と。
張り詰めていた、意識の糸が、切れた。
健太は、そのまま、冷たい床の上に、倒れ込み、意識を、完全に、手放した。
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