桜の記憶

第10話 選択のとき

春の風がやさしく吹き抜ける中、美咲は東京の街を歩いていた。久しぶりに見上げた空は、京都で見たものとは違う表情をしているように思えた。気のせいかもしれないが、心の奥にある何かが変わったから、景色の感じ方も変わったのだろう。

「さくらちゃん……」

ふと、頭の中に小さな声が響いた。悠人がそう呼んでくれたあの日から、少しずつ心の中に霧が晴れてきている気がする。

「でも、私は美咲でもあるんだよね」

鏡に映る自分を見つめながら、美咲は静かにそう呟いた。記憶は戻りきってはいない。しかし、感情だけは確かに残っていた。過去と向き合うほど、自分の中に二人の自分が共存しているのを感じる。田中さくらとしての、そして三浦美咲としての。

その夜、美咲は養母・恵子と夕食を囲んでいた。食卓には、恵子の得意料理である筑前煮と、炊きたてのご飯。変わらない味が、今日だけはなぜか胸に染みた。

「お母さん、私ね……少し考えてることがあるの」

恵子が箸を止めて、美咲を見つめた。

「京都に、もう一度行こうと思うの」

「……悠人さんに会いに?」

美咲は頷いた。

「ううん、違う。もちろん、悠人さんにも。でも、それだけじゃなくて……自分自身のことをちゃんと知りたいの。私が何者で、どんな人生を歩んできたのか、しっかりと見つめたい」

恵子はしばらく沈黙していたが、やがて静かに微笑んだ。

「そうね。あなたが、自分で歩いていく道を選ぶ時が来たのかもしれないわね」

「ごめんね、お母さん……」

「謝らないで。私はあなたが、どんな選択をしても、あなたの母親でいることに変わりはないわ」

美咲の目に涙が浮かんだ。自分をここまで育ててくれた恵子への感謝と、これからの未来への覚悟が交錯する。

数日後、美咲は再び京都へ向かった。今度は、逃げるためではなく、確かめるために。駅に着くと、悠人が迎えに来てくれていた。

「久しぶりですね」

「うん。でも、不思議とすごく懐かしい気持ち」

二人は再会を喜びながら、桜月庵へと向かった。店内には、春の限定和菓子「花明かり」が並び、柔らかな香りが空間を包んでいた。

「来てくれてありがとう。正直、もう一度会えるなんて思ってなかった」

「私も。でも、ここに来てよかったと思ってる」

悠人は微笑んだ。

「実は……さくらに見せたいものがあるんだ」

そう言って、彼は奥の部屋へ案内した。そこには、古い木箱が置かれていた。開くと、中には田中家の思い出の品々が丁寧に保管されていた。

小さなピンク色のヘアピン。お気に入りだった絵本。ぬいぐるみ。

「……これ……私の……」

美咲の指が、震えながらヘアピンを掴む。

「覚えてるかもしれないと思って」

「ううん、はっきりとは思い出せない。でも……懐かしいの」

その瞬間、美咲の目から涙がこぼれ落ちた。

「私、やっと自分が何者かを受け入れられそうな気がする。田中さくらであり、三浦美咲でもある。どちらも大切な私。だからこそ、どちらの名前も、どちらの人生も、否定したくない」

悠人はゆっくりと頷いた。

「そのままでいい。名前なんて、君を縛るものじゃない。君が君であることに、変わりはないから」

「ありがとう、悠人さん」

そして、美咲は決意を込めた目で言った。

「私、ここ京都で、新しい一歩を踏み出したい。自分の力で何かを始めたい」

「うん、応援するよ。僕も……できる限りのことを手伝いたい」

その日、美咲は桜月庵の一角を借りて、オリジナル和菓子を作る構想を話した。自分の手で、新たな物語を紡いでいくために。

それは、さくらとしての過去を慈しみ、美咲としての今を愛し、そして未来へと繋げる、再出発の第一歩だった。

──そして、桜の季節はもう一度、美咲の人生を彩りはじめていた。

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