桜の記憶
第9話 はじまりの名前
春の雨が上がり、街は優しい光に包まれていた。桜の季節は過ぎたはずなのに、どこかにまだ春の香りが残っているような気がした。
東京のマンションの一室。窓を開けて、外の風を感じながら、美咲は静かに深呼吸をした。手には、幼いころの写真。そこに映っていたのは、無邪気に笑う小さな女の子と、兄と思われる少年。
「私……さくらだったんだね」
言葉にしてみても、それが実感として胸に落ちてくるには、まだ時間が必要だった。名前が変わっても、自分が誰かにとって大切な存在だったと知ることは、不思議な安心感を与えてくれる。
そして、それと同時に、美咲は“今の自分”が何者なのかを考えざるを得なかった。田中さくら。けれど、今の自分は三浦美咲。どちらが本当の自分なのだろう。
ふと、携帯電話が鳴った。画面には「田中悠人」の名前。
「もしもし」
「美咲さん……いや、さくら」
「どっちでも大丈夫です。いえ……今は、やっぱり“美咲”でお願いします」
電話越しに少し沈黙が流れた。だが、その空白の時間さえも、二人の関係をゆっくりと築くために必要なもののように感じられた。
「美咲さん……今度、こっちに来る予定はありますか?」
「はい。来週末にお休みが取れそうなので、京都へ行こうと思っています」
「それなら……一緒に行ってほしい場所があるんです」
「場所……ですか?」
「事故のあった場所と……さくら、いや、美咲さんが保護された場所。そして……桜子の眠るお寺です」
電話の向こうの声は穏やかだったが、言葉の一つひとつが心に深く響いた。自分が知らなかった過去と、誰かの痛み。それを一緒に見に行こうと誘われていることが、美咲にはとても大きな意味を持っていた。
「……はい。行きます」
電話を切ったあと、美咲は鏡の前に立った。今まで気づかなかったが、目の奥に確かに“何か”が芽生えていた。それは、過去を受け入れ、新しい自分を見つけようとする強さだった。
その夜、恵子が静かに部屋に入ってきた。
「京都に行くのね」
「はい。お母さん……私、さくらだったって……ちゃんと受け止めてきます」
恵子は美咲の横に座り、手を握った。
「名前が何であっても、私はあなたのお母さん。それだけは、変わらないわ」
「……ありがとう」
「でもね、あなたが過去を確かめたいと思う気持ちも、ちゃんと分かってる。だから、行ってきなさい。迷わずに」
恵子の言葉に、美咲は思わず涙がこぼれそうになった。親子とは血のつながりだけではない。共に過ごした時間、互いを思い合う気持ち、それらが絆を形づくっていく。
翌週末、再び京都の地に降り立った美咲は、悠人と共に、かつての自分が過ごした場所を訪れた。
事故現場の近く、細い道に咲く野花たち。山裾の小さな寺。仏壇の前で手を合わせる悠人の横顔。
「桜子さんは、どんな方だったんですか?」
「優しくて、芯の強い人でした。あなたのことを、本当に大切にしてくれていた。あの事故のときも、最後まであなたを守ろうとして……」
「……そうなんですね」
美咲は目を閉じ、胸の中で何かが静かにほどけていくのを感じた。自分が生きていた背景には、誰かの犠牲と、誰かの愛があった。それを忘れずに生きていくことが、きっとこれからの自分にできる“答え”なのだろう。
その夜、桜月庵の座敷で、美咲は悠人と並んで座っていた。
「名前って、不思議ですね」
「どうして?」
「“さくら”って呼ばれると、懐かしいけど少し遠く感じる。“美咲”は今の自分。でも、どちらも自分なんだって、今日やっと思えたんです」
悠人は微笑んだ。
「それでいいんだよ。どちらも大切な名前なんだから」
「……新しい名前を、ひとつ考えようかな」
「新しい名前?」
「ううん、比喩的な意味です。“さくら”と“美咲”が出会って、歩き出す“私”。そんな名前を、自分の中に持ちたいと思って」
春の終わり、月がやわらかく二人を照らしていた。
過去を知った今だからこそ、未来が見えてくる。
美咲──いや、“私”の物語は、ここからが本当のはじまりだった。
東京のマンションの一室。窓を開けて、外の風を感じながら、美咲は静かに深呼吸をした。手には、幼いころの写真。そこに映っていたのは、無邪気に笑う小さな女の子と、兄と思われる少年。
「私……さくらだったんだね」
言葉にしてみても、それが実感として胸に落ちてくるには、まだ時間が必要だった。名前が変わっても、自分が誰かにとって大切な存在だったと知ることは、不思議な安心感を与えてくれる。
そして、それと同時に、美咲は“今の自分”が何者なのかを考えざるを得なかった。田中さくら。けれど、今の自分は三浦美咲。どちらが本当の自分なのだろう。
ふと、携帯電話が鳴った。画面には「田中悠人」の名前。
「もしもし」
「美咲さん……いや、さくら」
「どっちでも大丈夫です。いえ……今は、やっぱり“美咲”でお願いします」
電話越しに少し沈黙が流れた。だが、その空白の時間さえも、二人の関係をゆっくりと築くために必要なもののように感じられた。
「美咲さん……今度、こっちに来る予定はありますか?」
「はい。来週末にお休みが取れそうなので、京都へ行こうと思っています」
「それなら……一緒に行ってほしい場所があるんです」
「場所……ですか?」
「事故のあった場所と……さくら、いや、美咲さんが保護された場所。そして……桜子の眠るお寺です」
電話の向こうの声は穏やかだったが、言葉の一つひとつが心に深く響いた。自分が知らなかった過去と、誰かの痛み。それを一緒に見に行こうと誘われていることが、美咲にはとても大きな意味を持っていた。
「……はい。行きます」
電話を切ったあと、美咲は鏡の前に立った。今まで気づかなかったが、目の奥に確かに“何か”が芽生えていた。それは、過去を受け入れ、新しい自分を見つけようとする強さだった。
その夜、恵子が静かに部屋に入ってきた。
「京都に行くのね」
「はい。お母さん……私、さくらだったって……ちゃんと受け止めてきます」
恵子は美咲の横に座り、手を握った。
「名前が何であっても、私はあなたのお母さん。それだけは、変わらないわ」
「……ありがとう」
「でもね、あなたが過去を確かめたいと思う気持ちも、ちゃんと分かってる。だから、行ってきなさい。迷わずに」
恵子の言葉に、美咲は思わず涙がこぼれそうになった。親子とは血のつながりだけではない。共に過ごした時間、互いを思い合う気持ち、それらが絆を形づくっていく。
翌週末、再び京都の地に降り立った美咲は、悠人と共に、かつての自分が過ごした場所を訪れた。
事故現場の近く、細い道に咲く野花たち。山裾の小さな寺。仏壇の前で手を合わせる悠人の横顔。
「桜子さんは、どんな方だったんですか?」
「優しくて、芯の強い人でした。あなたのことを、本当に大切にしてくれていた。あの事故のときも、最後まであなたを守ろうとして……」
「……そうなんですね」
美咲は目を閉じ、胸の中で何かが静かにほどけていくのを感じた。自分が生きていた背景には、誰かの犠牲と、誰かの愛があった。それを忘れずに生きていくことが、きっとこれからの自分にできる“答え”なのだろう。
その夜、桜月庵の座敷で、美咲は悠人と並んで座っていた。
「名前って、不思議ですね」
「どうして?」
「“さくら”って呼ばれると、懐かしいけど少し遠く感じる。“美咲”は今の自分。でも、どちらも自分なんだって、今日やっと思えたんです」
悠人は微笑んだ。
「それでいいんだよ。どちらも大切な名前なんだから」
「……新しい名前を、ひとつ考えようかな」
「新しい名前?」
「ううん、比喩的な意味です。“さくら”と“美咲”が出会って、歩き出す“私”。そんな名前を、自分の中に持ちたいと思って」
春の終わり、月がやわらかく二人を照らしていた。
過去を知った今だからこそ、未来が見えてくる。
美咲──いや、“私”の物語は、ここからが本当のはじまりだった。