桜の記憶

第12話 菓子にこめた思い

春の陽気が満ちる京都。桜月庵の庭先にも、可憐な花が咲き誇り、さわやかな風がそっと木々を揺らしていた。

美咲は厨房の片隅で、小さな和菓子を仕上げていた。

「“春の音”って名前にしようと思うんです」

淡い桃色に染められた練り切りの表面には、繊細に刻まれた桜の花びら。中心にはほんのりと黄金色の餡が覗く。初めて自分で考案した和菓子。その名に込めたのは、かすかだけれど確かに響いていた、過去の記憶と希望の音だった。

「春の音……いい名だなあ」

悠人が隣で微笑んだ。

「これは僕じゃなくて、今日来てくださるお客様に届けたい気持ちです」

今日は桜月庵で小さな催しが開かれる日だった。地域の人々を招いて、季節の和菓子と抹茶をふるまう恒例行事。

「美咲さんの初舞台ですね」 「緊張してます。けど、不思議と……逃げ出したくはないです」

美咲の表情は、少しずつ柔らかさを取り戻していた。

準備を終えると、桜月庵の客間には次々と町の人々が訪れた。

「こんにちは、今日は新しい方が作られたと聞いて……」 「はい、美咲と申します。よろしくお願いします」

客のひとりが和菓子を口にし、ふわっと微笑んだ。

「ん……口の中で春が咲いたようや」

「やさしい味」「どこか懐かしい……」

ひとつ、またひとつと「春の音」が客のもとへ運ばれ、笑顔が咲いていった。

その姿を見て、美咲は静かに手を胸に置いた。

(お母さん……私は今、ちゃんとここにいます)

東京に残る恵子も、朝に届いた美咲からの手紙を読みながら、涙ぐんでいた。

『私は今、過去と未来の交差点に立っています。記憶のすべては戻らないかもしれません。それでも、もう逃げません。和菓子を通して、私なりの物語を紡いでいきます』

恵子は手紙をそっと胸に当てた。

「美咲……ううん、さくら。あの子は、きっと自分の道を見つけたのね」

一方、催しが終わった桜月庵の庭で、悠人が小さな桜の盆栽を見ながらつぶやいた。

「君はすごいな。ちゃんと前を見てる」

「私、まだ揺れてますよ。でも……この和菓子に、全部詰め込んだんです」

「“春の音”、か。きっと亡くなった両親にも、桜子にも、届いてる」

「……そうだといいですね」

二人は静かに桜の花を見つめた。

美咲が歩き出した新しい日々。その一歩はまだ頼りなく、揺れていた。

けれどその手には、かすかに響く“春の音”が、確かに握られていた。
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