桜の記憶
第13話 覚悟の朝
春の音が町に響いた翌朝、美咲はいつもより早く目を覚ました。
まだ夜が明けきらぬ薄明の中、彼女は小さなノートを開き、和菓子のレシピを書き留める。昨夜の感動が、静かに彼女の中で形を成し始めていた。
「今日は、桜月庵の一員として、ちゃんとやらなきゃ」
心にそう言い聞かせながら、美咲は作務衣に着替え、厨房へ向かう。
厨房にはすでに、悠人の姿があった。いつものように準備を進めながらも、彼の所作はどこか優しく、昨日の余韻がまだ彼の中にも残っているようだった。
「おはようございます、悠人さん」
「おはよう、美咲さん。今日も早いですね」
「はい。少し、試したいことがあって…」
悠人は微笑んで頷いた。
「いいですね。自由に使ってください」
美咲は深く頭を下げると、黙々と小豆を炊き始めた。
昨日、春の音を味わってくれたお客たちの顔が思い浮かぶ。喜び、懐かしむようなあの表情。それが、彼女の背中を自然と押していた。
午前中、町の小学校から依頼されていた和菓子づくり教室が開かれることになっていた。
「美咲さん、今日の教室、お願いしてもいいかな?」
悠人がふと声をかける。
「え、私がですか?」
「昨日の“春の音”、本当に素晴らしかった。だからこそ、君の言葉で伝えてほしい。和菓子に込めた想いや、どうしてその形にしたのかって」
一瞬戸惑ったが、美咲は頷いた。
「はい。やってみます」
小学校の教室には、十数人の子どもたちが集まっていた。
桜月庵の白いのれんを模した紙が掲げられ、小さな机の上にはきれいに並べられた木べらや白あん、小豆餡。子どもたちの目が輝いていた。
美咲は深呼吸し、笑顔を浮かべた。
「みなさん、こんにちは。今日は一緒に和菓子を作ってみましょう」
はじめは緊張気味だった美咲の声も、子どもたちの素直な反応に背中を押されるように、自然と和らいでいった。
「この“春の音”というお菓子は、見た目はシンプルだけど、春の風と、あったかい記憶をイメージして作りました」
「ねえお姉さん、お菓子で音って作れるの?」
男の子の質問に、教室がくすくすと笑いに包まれる。
「音は形にできないけど、食べたとき、心の中に“ぽっ”て響くものがあるでしょう? それが、音なんじゃないかなって思って」
美咲の言葉に、子どもたちは目を丸くして頷いた。
一つひとつ、彼女の手の動きを真似しながら、子どもたちは思い思いの和菓子を作っていく。
「ぼく、ママにあげるんだ!」
「わたしはおばあちゃんに! 春のおと、聞いてほしいの」
その声を聞きながら、美咲の胸にこみあげるものがあった。いつしか、自分が和菓子に抱いていた憧れと、いまの想いがつながっていくのを感じた。
教室が終わり、子どもたちが帰っていったあと、校庭の桜の木の下で、美咲は一人空を見上げた。
「和菓子って…人をつなげるものなんだな」
そう呟いたその時、携帯が震えた。
画面には「恵子」の名前があった。
「あ、お母さん…」
電話に出ると、恵子の穏やかな声が響いた。
「美咲、調子はどう?」
「うん、なんとかやってるよ。今日は小学校で教室をして…」
「そう。それはよかった。あのね、美咲。ちょっと話したいことがあるの」
「なに?」
「あなたの…本当のお母さんのこと」
一瞬、風の音が遠く感じられた。
「え?」
「ずっと、話さなきゃいけないと思ってた。でも、怖くて…ごめんね」
美咲は何も言えず、携帯を握りしめた。
「会って話せる? 今週末、東京に戻ってこられるかしら」
「…わかった。行くよ」
電話を切ったあと、美咲は桜の木を見上げた。
その枝先に、ひとひらの花が残っていた。
過去と向き合う日が、静かに近づいていた。
まだ夜が明けきらぬ薄明の中、彼女は小さなノートを開き、和菓子のレシピを書き留める。昨夜の感動が、静かに彼女の中で形を成し始めていた。
「今日は、桜月庵の一員として、ちゃんとやらなきゃ」
心にそう言い聞かせながら、美咲は作務衣に着替え、厨房へ向かう。
厨房にはすでに、悠人の姿があった。いつものように準備を進めながらも、彼の所作はどこか優しく、昨日の余韻がまだ彼の中にも残っているようだった。
「おはようございます、悠人さん」
「おはよう、美咲さん。今日も早いですね」
「はい。少し、試したいことがあって…」
悠人は微笑んで頷いた。
「いいですね。自由に使ってください」
美咲は深く頭を下げると、黙々と小豆を炊き始めた。
昨日、春の音を味わってくれたお客たちの顔が思い浮かぶ。喜び、懐かしむようなあの表情。それが、彼女の背中を自然と押していた。
午前中、町の小学校から依頼されていた和菓子づくり教室が開かれることになっていた。
「美咲さん、今日の教室、お願いしてもいいかな?」
悠人がふと声をかける。
「え、私がですか?」
「昨日の“春の音”、本当に素晴らしかった。だからこそ、君の言葉で伝えてほしい。和菓子に込めた想いや、どうしてその形にしたのかって」
一瞬戸惑ったが、美咲は頷いた。
「はい。やってみます」
小学校の教室には、十数人の子どもたちが集まっていた。
桜月庵の白いのれんを模した紙が掲げられ、小さな机の上にはきれいに並べられた木べらや白あん、小豆餡。子どもたちの目が輝いていた。
美咲は深呼吸し、笑顔を浮かべた。
「みなさん、こんにちは。今日は一緒に和菓子を作ってみましょう」
はじめは緊張気味だった美咲の声も、子どもたちの素直な反応に背中を押されるように、自然と和らいでいった。
「この“春の音”というお菓子は、見た目はシンプルだけど、春の風と、あったかい記憶をイメージして作りました」
「ねえお姉さん、お菓子で音って作れるの?」
男の子の質問に、教室がくすくすと笑いに包まれる。
「音は形にできないけど、食べたとき、心の中に“ぽっ”て響くものがあるでしょう? それが、音なんじゃないかなって思って」
美咲の言葉に、子どもたちは目を丸くして頷いた。
一つひとつ、彼女の手の動きを真似しながら、子どもたちは思い思いの和菓子を作っていく。
「ぼく、ママにあげるんだ!」
「わたしはおばあちゃんに! 春のおと、聞いてほしいの」
その声を聞きながら、美咲の胸にこみあげるものがあった。いつしか、自分が和菓子に抱いていた憧れと、いまの想いがつながっていくのを感じた。
教室が終わり、子どもたちが帰っていったあと、校庭の桜の木の下で、美咲は一人空を見上げた。
「和菓子って…人をつなげるものなんだな」
そう呟いたその時、携帯が震えた。
画面には「恵子」の名前があった。
「あ、お母さん…」
電話に出ると、恵子の穏やかな声が響いた。
「美咲、調子はどう?」
「うん、なんとかやってるよ。今日は小学校で教室をして…」
「そう。それはよかった。あのね、美咲。ちょっと話したいことがあるの」
「なに?」
「あなたの…本当のお母さんのこと」
一瞬、風の音が遠く感じられた。
「え?」
「ずっと、話さなきゃいけないと思ってた。でも、怖くて…ごめんね」
美咲は何も言えず、携帯を握りしめた。
「会って話せる? 今週末、東京に戻ってこられるかしら」
「…わかった。行くよ」
電話を切ったあと、美咲は桜の木を見上げた。
その枝先に、ひとひらの花が残っていた。
過去と向き合う日が、静かに近づいていた。