桜の記憶
第17話 桜薫の記憶
春の陽射しが、桜月庵の欄間を通り抜け、淡い模様を畳に落としていた。
佐藤美咲は、開け放たれた縁側に座り、手にした古い和綴じの手帳をそっと開いた。
それは、亡き祖母が遺した「和菓子ノート」。
表紙には筆で「記すことで、心がほどける」と書かれていた。
「……“桜薫”って、この中に載ってるかな」
手帳の中には、花の名を冠した菓子の名が並んでいた。
「初桜」「霞の雫」「山笑ふ」──いずれも春を映したような繊細な和菓子ばかりだった。
そして、数ページめくった先に、美咲の目は止まった。
『桜薫──あの子のために』
その一文の下には、材料と製法が丁寧に書き記されていた。
小豆は丹波大納言。桜の葉は塩漬けせず、あえて生のものを使うとある。
桜の香りを逃さぬよう、炊き上げた餡に桜の花びらを重ねて蒸らすという、丁寧で時間のかかる手法だった。
「……“あの子”って、誰のこと?」
思わず声に出してしまったその瞬間、台所の奥から足音が聞こえた。
悠人が湯呑を手に現れ、彼女の隣に腰を下ろした。
「“あの子”……それ、多分、君のことだよ」
美咲はゆっくり顔を上げた。
「私?」
「昔、祖母が言ってたんだ。美咲がまだ小さかった頃、春になると“桜のにおいのするお菓子”をねだるって。だから作ったんだよ、君のために、“桜薫”を」
喉の奥が熱くなる。
「でも、私、覚えてない……」
「いいんだ。忘れていても、君が今、ここでそれを作ろうとしてることが──記憶の代わりになる」
悠人の言葉に、美咲は小さく頷いた。
「作ってみたいです。“桜薫”、祖母が私に残してくれたものだから」
翌日。
美咲は早朝から厨房に立った。
季節の終わりを迎える桜の枝先から、最後の花を摘み、丁寧に水にくぐらせる。
銅鍋に大納言を入れ、焦がさぬように練る。
桜の花びらをひとひら、またひとひらと落とすたび、ふわりと春の香りが立ちのぼる。
仕上げに、生地で餡を包み、柔らかな蒸気で蒸しあげる。
──完成したのは、やわらかな桃色の饅頭だった。
光に透けるほど薄い皮の中に、ほんのりと桜が香る餡。
口に入れた瞬間、ほろりと崩れ、淡い塩味と優しい甘さが広がった。
「……美咲さん、これは……」
味見をした塔子が、目を丸くしていた。
「本当に、祖母の味……いや、それ以上かもしれない」
美咲は静かに微笑んだ。
「“私”の桜薫です。祖母の想いと、私の今が重なった味になればと思って」
その夜、桜月庵では「春の終わりの特別菓子」として、数量限定で桜薫が並んだ。
やわらかな香りと共に、人々の心に静かに沁みていくようだった。
そして閉店後、静かになった店内で、美咲はもう一度祖母の手帳を開いた。
最後のページには、たった一行──こう記されていた。
『未来のあなたへ。どんなに記憶が失われても、香りはあなたを導く』
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
でもそれは、悲しみではなかった。
記憶ではなく、想いが今につながっていることを──彼女はようやく受け入れられた気がした。
(ありがとう、おばあちゃん)
美咲はそっと手帳を閉じた。
もう迷わない。ここが、私の居場所。
桜の香りが残る厨房で、彼女は次の菓子に取りかかる。
季節は、また静かに夏へと向かっていた。
佐藤美咲は、開け放たれた縁側に座り、手にした古い和綴じの手帳をそっと開いた。
それは、亡き祖母が遺した「和菓子ノート」。
表紙には筆で「記すことで、心がほどける」と書かれていた。
「……“桜薫”って、この中に載ってるかな」
手帳の中には、花の名を冠した菓子の名が並んでいた。
「初桜」「霞の雫」「山笑ふ」──いずれも春を映したような繊細な和菓子ばかりだった。
そして、数ページめくった先に、美咲の目は止まった。
『桜薫──あの子のために』
その一文の下には、材料と製法が丁寧に書き記されていた。
小豆は丹波大納言。桜の葉は塩漬けせず、あえて生のものを使うとある。
桜の香りを逃さぬよう、炊き上げた餡に桜の花びらを重ねて蒸らすという、丁寧で時間のかかる手法だった。
「……“あの子”って、誰のこと?」
思わず声に出してしまったその瞬間、台所の奥から足音が聞こえた。
悠人が湯呑を手に現れ、彼女の隣に腰を下ろした。
「“あの子”……それ、多分、君のことだよ」
美咲はゆっくり顔を上げた。
「私?」
「昔、祖母が言ってたんだ。美咲がまだ小さかった頃、春になると“桜のにおいのするお菓子”をねだるって。だから作ったんだよ、君のために、“桜薫”を」
喉の奥が熱くなる。
「でも、私、覚えてない……」
「いいんだ。忘れていても、君が今、ここでそれを作ろうとしてることが──記憶の代わりになる」
悠人の言葉に、美咲は小さく頷いた。
「作ってみたいです。“桜薫”、祖母が私に残してくれたものだから」
翌日。
美咲は早朝から厨房に立った。
季節の終わりを迎える桜の枝先から、最後の花を摘み、丁寧に水にくぐらせる。
銅鍋に大納言を入れ、焦がさぬように練る。
桜の花びらをひとひら、またひとひらと落とすたび、ふわりと春の香りが立ちのぼる。
仕上げに、生地で餡を包み、柔らかな蒸気で蒸しあげる。
──完成したのは、やわらかな桃色の饅頭だった。
光に透けるほど薄い皮の中に、ほんのりと桜が香る餡。
口に入れた瞬間、ほろりと崩れ、淡い塩味と優しい甘さが広がった。
「……美咲さん、これは……」
味見をした塔子が、目を丸くしていた。
「本当に、祖母の味……いや、それ以上かもしれない」
美咲は静かに微笑んだ。
「“私”の桜薫です。祖母の想いと、私の今が重なった味になればと思って」
その夜、桜月庵では「春の終わりの特別菓子」として、数量限定で桜薫が並んだ。
やわらかな香りと共に、人々の心に静かに沁みていくようだった。
そして閉店後、静かになった店内で、美咲はもう一度祖母の手帳を開いた。
最後のページには、たった一行──こう記されていた。
『未来のあなたへ。どんなに記憶が失われても、香りはあなたを導く』
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
でもそれは、悲しみではなかった。
記憶ではなく、想いが今につながっていることを──彼女はようやく受け入れられた気がした。
(ありがとう、おばあちゃん)
美咲はそっと手帳を閉じた。
もう迷わない。ここが、私の居場所。
桜の香りが残る厨房で、彼女は次の菓子に取りかかる。
季節は、また静かに夏へと向かっていた。