桜の記憶
第18話 風がつなぐもの
桜の花がすっかり散った頃、桜月庵には新しい季節の気配が満ちていた。店先には涼しげな笹の葉と共に、夏を先取りした菓子の見本が並び始めていた。
厨房では、美咲が新作の試作に取り組んでいた。次の季節に向けた菓子──祖母が残した手帳には「風渡る」という名の和菓子が記されていた。笹の葉に包んだ水まんじゅうに、梅の香りをほんのり添えるというものだ。
「“風渡る”……この名前、なんだか好き」
その言葉どおり、蒸し暑さを忘れさせるような清涼感が感じられる響きだった。彼女は厨房の窓を開け放ち、そよぐ風に耳を傾けた。
すると、風に乗って小さな声が聞こえた気がした。
──美咲ちゃん、美咲ちゃん。
ハッとする。声の正体はわからなかった。でも、不思議と恐ろしくはなかった。
(気のせい……だよね)
その日の午後、懐かしい人物が桜月庵を訪れた。
「……美咲」
声をかけてきたのは、かつて東京の出版社で同僚だった編集者、柴田綾香だった。彼女はベージュのトレンチコートを羽織り、相変わらず凛とした雰囲気を纏っていた。
「綾香さん……どうしてここに?」
「京都に取材で来てたの。偶然、ここを見つけて……信じられない。ほんとに美咲が和菓子屋で働いてるなんて」
再会の驚きと喜びが交錯する。美咲は彼女を店の奥に案内し、久しぶりに並んでお茶を飲んだ。
「あなた、変わったわね。東京にいたときより、ずっといい顔してる」
「そう見えるかな……。でも、まだ迷ってばかりだよ」
「迷いながらでも、進んでるってことよ。あなた、昔よりずっと強くなった」
綾香の言葉に、美咲は照れたように微笑んだ。
「ねえ、美咲。これからもここで和菓子を作り続けるつもり?」
「うん。ここが、私の居場所だから」
しばらくの沈黙の後、綾香は静かに切り出した。
「実はね、今度、京都と東京をつなぐ“手仕事と物語”をテーマにした特集を組もうと思ってるの。職人さんたちの背景や想いを、ちゃんと“物語”として紹介する企画。……そのトップに、あなたのことを載せたいの」
美咲は目を見開いた。
「私が……物語に?」
「ええ。あなたの作るお菓子には、ちゃんと“想い”がある。それを読者に届けたいの」
思いもよらない提案に、美咲の胸がざわめいた。
(私の物語……)
戸惑いながらも、その言葉の中に新しい風が吹いた気がした。過去を乗り越え、いま目の前にあるものに全力で向き合っている自分が、ようやく誰かに見つけてもらえたような気がしたのだ。
「ありがとう、綾香さん。……私、やってみたい」
風がまた、暖簾を優しく揺らした。まるで誰かが「それでいい」と背中を押してくれているように。
次の一歩へ──美咲は、再び前を向いた。
厨房では、美咲が新作の試作に取り組んでいた。次の季節に向けた菓子──祖母が残した手帳には「風渡る」という名の和菓子が記されていた。笹の葉に包んだ水まんじゅうに、梅の香りをほんのり添えるというものだ。
「“風渡る”……この名前、なんだか好き」
その言葉どおり、蒸し暑さを忘れさせるような清涼感が感じられる響きだった。彼女は厨房の窓を開け放ち、そよぐ風に耳を傾けた。
すると、風に乗って小さな声が聞こえた気がした。
──美咲ちゃん、美咲ちゃん。
ハッとする。声の正体はわからなかった。でも、不思議と恐ろしくはなかった。
(気のせい……だよね)
その日の午後、懐かしい人物が桜月庵を訪れた。
「……美咲」
声をかけてきたのは、かつて東京の出版社で同僚だった編集者、柴田綾香だった。彼女はベージュのトレンチコートを羽織り、相変わらず凛とした雰囲気を纏っていた。
「綾香さん……どうしてここに?」
「京都に取材で来てたの。偶然、ここを見つけて……信じられない。ほんとに美咲が和菓子屋で働いてるなんて」
再会の驚きと喜びが交錯する。美咲は彼女を店の奥に案内し、久しぶりに並んでお茶を飲んだ。
「あなた、変わったわね。東京にいたときより、ずっといい顔してる」
「そう見えるかな……。でも、まだ迷ってばかりだよ」
「迷いながらでも、進んでるってことよ。あなた、昔よりずっと強くなった」
綾香の言葉に、美咲は照れたように微笑んだ。
「ねえ、美咲。これからもここで和菓子を作り続けるつもり?」
「うん。ここが、私の居場所だから」
しばらくの沈黙の後、綾香は静かに切り出した。
「実はね、今度、京都と東京をつなぐ“手仕事と物語”をテーマにした特集を組もうと思ってるの。職人さんたちの背景や想いを、ちゃんと“物語”として紹介する企画。……そのトップに、あなたのことを載せたいの」
美咲は目を見開いた。
「私が……物語に?」
「ええ。あなたの作るお菓子には、ちゃんと“想い”がある。それを読者に届けたいの」
思いもよらない提案に、美咲の胸がざわめいた。
(私の物語……)
戸惑いながらも、その言葉の中に新しい風が吹いた気がした。過去を乗り越え、いま目の前にあるものに全力で向き合っている自分が、ようやく誰かに見つけてもらえたような気がしたのだ。
「ありがとう、綾香さん。……私、やってみたい」
風がまた、暖簾を優しく揺らした。まるで誰かが「それでいい」と背中を押してくれているように。
次の一歩へ──美咲は、再び前を向いた。