桜の記憶

第19話 想いを包む

夏が近づくにつれ、桜月庵には季節の風物詩が顔を出し始めていた。風鈴の音が涼を運び、軒先には竹笹が飾られ、店の前を通る人々の足取りもどこか軽やかだった。

美咲は厨房で「風渡る」の最終仕上げに取りかかっていた。何度も試作を重ねた水まんじゅう。ほんのりとした梅の香りと、柔らかな口どけ。祖母の手帳に書かれていたレシピは簡潔だったが、そのひと言ひと言に込められた想いを自分なりに解釈し、ようやく納得のいく味にたどり着いた。

「これで……いいよね、おばあちゃん」

そうつぶやくと、ふっと風が吹き抜け、風鈴が短く鳴いた。

その日、綾香が再び桜月庵を訪れた。彼女は大きなノートパソコンを抱え、仕事モードの表情で店に入ってくる。

「いよいよ今日から取材本番よ。ちゃんと“語って”もらうからね」

「緊張するなあ……」

「でも、あなたの物語なんでしょう? 自分の言葉で話せばいいのよ」

美咲はうなずいた。そして、綾香がノートを開くと、彼女はこれまでの経緯──出版社で働いていた頃の迷いや、祖母の死、京都への移住、桜月庵での日々、そして和菓子作りを通して少しずつ変わっていった自分の心──を、静かに、けれど確かに語り始めた。

綾香はそのすべてを丁寧に記録しながら、ときに質問を挟み、ときにただ黙って耳を傾けた。

「……私ね、最初は“逃げるように”京都に来たの。でも、ここに来て、逃げてきた先に、向き合うべきものがたくさんあったって気づいたの」

「向き合ったからこそ、前に進めたのね」

「うん。そして、和菓子って不思議だなって思うの。たとえば、ひとつのあんこの中に、たくさんの想いが包まれている。喜びや、懐かしさや、寂しさとか──そういうの全部、少しずつ包んで、形にするって……すごく優しい仕事だなって」

綾香は、その言葉を胸に刻むように頷いた。

「素敵な言葉。誌面の冒頭に使わせてもらうわ」

その日の取材は日暮れまで続いた。夕暮れの光が店の障子越しに差し込み、桜月庵はどこか金色に染まっていた。

取材を終えた綾香は、美咲が仕上げた「風渡る」を口にし、ふっと目を細めた。

「……やさしい味。きっと、読者にもこの味が伝わる」

「ありがとう」

ふたりはしばし無言で風鈴の音に耳を傾けた。やわらかな風がまた、店の中を通り抜けていく。

その風の中には、かつての祖母の声も、幼い日の自分も、そして今ここにいる自分も、すべてが静かに溶け込んでいるような気がした。

──想いを包んで、届ける。

それが、いまの美咲の仕事だった。

次の朝、店に届いた一通の手紙。

宛名は、達筆な文字で「佐藤美咲様」。差出人はなかったが、そこには桜の花びらのしおりが挟まれていた。

開くと、中には一行だけ、柔らかな筆致でこう書かれていた。

「あなたの和菓子には、記憶をほどく力がある」

美咲は胸に手を当て、そっと目を閉じた。

(記憶を……ほどく)

またひとつ、新しい扉が開いたような気がした。
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