桜の記憶

第21話 春雷

三月の終わり、京都には珍しく激しい雷雨が訪れた。

桜月庵の軒先に吊された風鈴が、風もなく鳴ることはなかったが、それでも空気の重さは、どこか胸騒ぎを誘った。

美咲は厨房で、翌日の仕込みをしていた。桜の葉を蒸して、香りを移した餅生地をそっと撫でると、ふわりと塩気と甘さが交じった記憶が蘇る。だが、その日は何かが違っていた。身体の奥で微かに、落ち着かないざわめきがあった。

「美咲さん、ちょっといいかな」

声をかけたのは悠人だった。彼の表情には、普段とは違う緊張が漂っていた。

「どうしたんですか?」

「少し話したいことがある。できれば……今夜、閉店後に」

「……わかりました」

美咲はその言葉に不安を感じながらも、頷いた。

店を閉めた後、ふたりは桜月庵の奥座敷に向かった。茶器を用意する悠人の手が、わずかに震えているのを、美咲は見逃さなかった。

「実は──」

そう切り出した悠人は、一冊のノートを取り出した。薄い紺色の表紙。どこか見覚えのある筆跡。

「これは……」

「母の手帳なんだ。事故のあと、整理しきれず残っていたもの。最近になって押入れから出てきた」

美咲はページをめくる。そこには、“さくら”と呼ばれる少女について書かれた断片的な記録が並んでいた。

──五歳の誕生日、桜の木の下で転んだあの子の膝には、絆創膏を貼っても泣き止まなかった。

──夜中に夢を見て泣きながら起きたあの子を、桜子がぎゅっと抱きしめていた。

──事故の前、最後に一緒に食べた和菓子は「桜薫」。あの子は、花びらの形をずっと見つめていた。

「……これ、私のこと……?」

美咲の声は震えていた。

悠人は、ゆっくりと頷いた。

「やっぱり、さくら──君だったんだ。確信したよ」

雷鳴が、遠くで鳴った。

美咲は、胸の奥で何かが崩れ落ちていくのを感じた。それは恐れであり、安堵でもあった。ずっと心の奥にあった空白が、ようやく埋まりつつあることを、身体のどこかが知っていた。

「でも……私は、佐藤美咲として育った。養母に、大切に育てられて……その記憶も、嘘じゃないんです」

「わかってる。君にとって、どちらも大切な家族なんだ」

悠人の言葉は優しく、それが余計に美咲の胸を締めつけた。

「ごめんなさい。私……混乱してて」

「いいんだ。今日、話そうと思ったのは、君を追い詰めるためじゃない。これから君が、自分の足で進めるように……真実を伝えたかっただけだよ」

その言葉に、美咲はようやく涙をこぼした。

どちらかを否定するのではなく、両方を受け入れて歩いていく。それが、きっと自分に課された道なのだろう。

その夜、美咲は母の形見の箱を取り出した。佐藤恵子が遺した、古いアルバムや手紙、そして最後に書き残した日記。

そこには、こう綴られていた。

──あの子に出会えたこと、それが私の人生の奇跡です。血のつながりはなくても、心はいつだって母親でした。もし、あの子が本当の家族に出会えたとき、どうかその道を恐れないで進んでほしい。

美咲は日記を胸に抱き、深く、深く呼吸をした。

雷が去った夜空には、雲の切れ間から星が瞬いていた。
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