桜の記憶

第22話 手紙の行方

その日、美咲は朝から落ち着かなかった。  桜月庵の厨房に立っていても、心ここにあらず。包丁を持つ手がふと止まり、呆然と遠くの桜並木を見つめてしまう。

「……美咲さん、大丈夫ですか?」

 声をかけたのは、若女将の(こずえ)だった。

「ごめんなさい、少し考えごとしてて」

 苦笑しながら美咲は返したが、その瞳の奥にはどこか陰が差していた。

 昨日、悠人から手渡された母・田中春香(たなかはるか)の手帳。  ページの隙間から、一枚の便箋が滑り落ちた。それは、彼女が生まれる前、春香が京都に宛てて書いた、未投函の手紙だった。

 ──美咲を産む決意を伝えた手紙。

 宛先には、達筆でこう書かれていた。 「桜月庵 主宛」

 封もされていないままのその手紙を、昨夜、美咲は何度も何度も読み返した。

 桜月庵の当主……それはきっと、椿大女将椿大女将(つばきおおおかみ)のことなのだろう。

 美咲は、意を決して梢に言った。

「梢さん……お話したいことがあるの。少し、時間をもらえますか?」

 その後、ふたりは縁側に腰掛けた。春の光が柔らかく差し込み、庭の桜が揺れていた。

 美咲は春香の手紙を差し出し、梢にだけ読んでもらった。  読み終えた梢は、しばらく沈黙した後、静かに頷いた。

「……祖母の部屋に、案内します」

 美咲の心臓が高鳴った。長い間、閉じられていた扉が、ようやく開こうとしていた。

 椿大女将──桜月庵の創業者にして、美咲が入庵してからただの一度も顔を見せていない人物。

 梢に導かれ、奥座敷へと向かった。

 襖の向こうで、椿大女将は静かに座っていた。  銀髪を丁寧に結い上げ、季節の草花が描かれた羽織を纏い、その存在感だけで空間が引き締まるようだった。

「……お入りなさい、佐藤美咲さん」

 凛とした声音に促され、美咲は深く頭を下げて部屋へと足を踏み入れた。

「これを、読んでいただきたいんです」

 彼女は春香の手紙を差し出した。大女将は受け取ると、細めた目でゆっくりと文面を追った。

 そして、手紙を畳み、ふうと息をついて言った。

「春香さん……あの子が、そんな手紙を残していたとは」

「ご存知だったんですか? 私の母のこと──」

「ええ。春香さんが一時、桜月庵に滞在していたことも。その後、突然姿を消したのも」

 椿大女将は、少し遠くを見るようにして話し始めた。

 かつて、春香は東京での苦しい暮らしの中で心を病み、療養のために京都を訪れた。そして桜月庵で静かな日々を送りながら、自分の居場所を見つけようとしていたのだという。

「私は、あの子にこの庵を継いでもらいたいとさえ思っていた。けれど……春香さんは突然姿を消し、東京に戻っていった」

「母は……妊娠していたから?」

 大女将は頷いた。

「恐らく。彼女は、子どもを産むことを選んだ。そして、この庵にその子を託さなかった。きっと、自分で育てる決意をしたのでしょう」

 美咲は、涙がこぼれるのをこらえながら言った。

「それでも……私は母に、ずっと会いたかった」

 大女将は静かに立ち上がり、美咲の前に膝をついた。

「あなたのことを、責めたりはしません。むしろ、よく来てくれましたね」

 その一言が、美咲の胸に染み入った。

 春香の選択も、恵子の愛も、そして今、美咲が立っているこの場所も──すべてが繋がっている。

 彼女はようやく、過去の断片をひとつずつ拾い集め、ひとつの“今”として受け止めようとしていた。

 そして、決意する。

「私……ここで生きていきたいんです。桜月庵で、母の想いを継いで」

 椿大女将は目を細め、微笑んだ。

「ならば、心して修行なさい。春香さんの娘としてではなく、ひとりの和菓子職人として」

 その日、美咲はようやく、自らの足で立つことを許された気がした。

 桜は、静かに風に舞っていた。

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