桜の記憶

第23話 桜が咲く日まで

手紙を読み終えた美咲は、しばらく動けなかった。滲んだ文字のひとつひとつが、まるで母の声となって耳に響く。

「美咲……」

悠人がそっと声をかけた。彼の手には、もう一通、封をされたままの小さな封筒が握られていた。

「これも手帳の奥に挟まってた。宛名はない。でも、君に向けて書かれたような気がして……」

美咲は手紙を受け取り、封を切る。そこに綴られていたのは、春香が妊娠を知った日、ひとり桜月庵の裏庭で桜を見上げながら書いた独白だった。

──私は、あなたに会いたい。怖いけれど、それ以上に、あなたをこの世界に迎えたい。

美咲の胸の奥に、なにか熱いものが湧き上がってきた。ずっと知りたかった答えが、ようやく届いたのだ。

「私……生まれてきてよかったんだね……」

涙がぽろぽろとこぼれた。春香は、自分を捨てたのではなかった。たとえ遠く離れていても、会えなくても、その想いは確かに残されていた。

悠人は黙って、美咲の隣に腰を下ろした。彼女の肩に、そっと手を添える。

「母さんが残した桜の木……君を待ってたんだと思う。いつか、君が戻ってくる日を」

美咲は小さく頷いた。風がそっと吹いて、庭の桜の枝が揺れる。

「私、もう逃げない。母の記憶も、桜月庵も、ちゃんと向き合っていきたい」

その瞳は、どこか決意に満ちていた。過去を受け入れた彼女は、少しずつ春へと向かって歩き始めていた。
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