桜の記憶
第31話 交差する想い
春の風が桜月庵の暖簾をふわりと揺らした。美咲は、朝一番で仕込んだ練乳餡の香りに包まれながら、今日も店頭に並ぶ和菓子の最終確認をしていた。
「……これが、春香さんの記憶の味」
彼女が手にしていたのは、母・春香がかつて試作していたという和菓子『風音』。練乳のまろやかさに桜葉のほのかな塩味を重ねた、優しくて芯のある味だ。完成させたのは美咲自身だったが、これは母の記憶と対話して生まれた味だった。
「美咲さん、そろそろ開店の時間ですよ」
梢の声に我に返る。美咲は「はい」と応え、心を切り替えて笑顔を作った。
その日、桜月庵にはひときわ多くの客が訪れた。和菓子展で入賞した『風音』を目当てに来た人々が、噂を聞きつけて列を作っていたのだ。
「……この味、なんだか懐かしい」 「優しいのに、最後まで印象に残る。不思議な和菓子ですね」
美咲は接客の合間に耳に入る言葉に、胸が温かくなるのを感じていた。
夕方近く、店の喧騒が一段落した頃、椿がゆっくりと帳場に現れた。
「『風音』、よく仕上げたわね。春香が生きていたら、どんな顔をしたかしら」
椿の言葉に、美咲は少し戸惑いながらも口を開いた。
「……私は、母のことを何も知らないままでした。でも、椿さんや梢さん、悠人さんがいてくれて。少しずつ、思い出せた気がするんです」
椿は黙って頷き、静かに茶を一口飲んだ後、ふと表情を崩した。
「春香は、あなたが生まれてからもずっと悩んでいた。母として、自分に何ができるかと。でもね……あの子が残した和菓子や言葉を見ていると、やっぱりあなたを愛していたのだと、よく分かるのよ」
美咲の目に、涙がにじんだ。
「私も……ようやくその想いに応えられるような気がしてきました」
その時、帳場の奥から悠人が顔を出した。
「美咲、ちょっと外、行こうか」
彼の提案に椿が軽く頷く。美咲は戸惑いながらも、店の前に出た。夕暮れの桜が、道端を優しく染めている。
「さっき、恵子さんから電話があったんだ。会いたいって」
「……養母の、恵子さんが?」
美咲の胸がざわつく。かつて彼女を育ててくれた女性。記憶をなくし、春香の死後、美咲を引き取ってくれた。
「俺も会ってみたくてさ。君がどんな時間を過ごしてきたのか、知りたいんだ」
悠人の瞳は、まっすぐに美咲を見つめていた。彼の存在は、過去を乗り越えた先にある“今”を示しているようだった。
「……うん、私も、ちゃんと会いたい。今の私を、恵子さんに見てもらいたい」
悠人は微笑み、美咲の手をそっと握った。そのぬくもりが、すべてを包み込むように優しくて、美咲の目にまた涙が浮かんだ。
風がふわりと吹き、桜の花びらがふたりの周囲を舞った。
そのひとひらひとひらが、美咲の歩いてきた道を照らすように、美しく空へ昇っていった。
「……これが、春香さんの記憶の味」
彼女が手にしていたのは、母・春香がかつて試作していたという和菓子『風音』。練乳のまろやかさに桜葉のほのかな塩味を重ねた、優しくて芯のある味だ。完成させたのは美咲自身だったが、これは母の記憶と対話して生まれた味だった。
「美咲さん、そろそろ開店の時間ですよ」
梢の声に我に返る。美咲は「はい」と応え、心を切り替えて笑顔を作った。
その日、桜月庵にはひときわ多くの客が訪れた。和菓子展で入賞した『風音』を目当てに来た人々が、噂を聞きつけて列を作っていたのだ。
「……この味、なんだか懐かしい」 「優しいのに、最後まで印象に残る。不思議な和菓子ですね」
美咲は接客の合間に耳に入る言葉に、胸が温かくなるのを感じていた。
夕方近く、店の喧騒が一段落した頃、椿がゆっくりと帳場に現れた。
「『風音』、よく仕上げたわね。春香が生きていたら、どんな顔をしたかしら」
椿の言葉に、美咲は少し戸惑いながらも口を開いた。
「……私は、母のことを何も知らないままでした。でも、椿さんや梢さん、悠人さんがいてくれて。少しずつ、思い出せた気がするんです」
椿は黙って頷き、静かに茶を一口飲んだ後、ふと表情を崩した。
「春香は、あなたが生まれてからもずっと悩んでいた。母として、自分に何ができるかと。でもね……あの子が残した和菓子や言葉を見ていると、やっぱりあなたを愛していたのだと、よく分かるのよ」
美咲の目に、涙がにじんだ。
「私も……ようやくその想いに応えられるような気がしてきました」
その時、帳場の奥から悠人が顔を出した。
「美咲、ちょっと外、行こうか」
彼の提案に椿が軽く頷く。美咲は戸惑いながらも、店の前に出た。夕暮れの桜が、道端を優しく染めている。
「さっき、恵子さんから電話があったんだ。会いたいって」
「……養母の、恵子さんが?」
美咲の胸がざわつく。かつて彼女を育ててくれた女性。記憶をなくし、春香の死後、美咲を引き取ってくれた。
「俺も会ってみたくてさ。君がどんな時間を過ごしてきたのか、知りたいんだ」
悠人の瞳は、まっすぐに美咲を見つめていた。彼の存在は、過去を乗り越えた先にある“今”を示しているようだった。
「……うん、私も、ちゃんと会いたい。今の私を、恵子さんに見てもらいたい」
悠人は微笑み、美咲の手をそっと握った。そのぬくもりが、すべてを包み込むように優しくて、美咲の目にまた涙が浮かんだ。
風がふわりと吹き、桜の花びらがふたりの周囲を舞った。
そのひとひらひとひらが、美咲の歩いてきた道を照らすように、美しく空へ昇っていった。