桜の記憶

第35話 新たな扉

桜薫の評判は、予想以上の速さで広がっていった。

発売からまだ一週間も経っていないのに、町の常連客だけでなく、遠方からも「一度食べてみたい」という声が届く。梢が帳場で伝票を整理している横で、パートの塔子が電話を取り、次々と予約を受け付けていた。



「美咲さん、これ、嬉しい悲鳴よ」

梢は目尻を下げながら、予約表を差し出す。

「三日後には、近くの茶道教室からお茶会用に二十個。その翌日には、老舗旅館から宿泊客へのお土産に、三十個の注文」



「そんなに……」

美咲は驚きと同時に、胸の奥がふっと温かくなる。

自分が生み出した味が、人の手を渡っていく──その光景が、目に浮かぶようだった。



厨房の奥から、佐々木が頭を出す。

「増産するなら、仕込み時間を少し前倒しだな。俺も手伝うよ」

その声に、塔子も

「じゃあ包装も私がやります」

と即答した。

桜月庵の空気は、春の陽射しのように柔らかく、活気に満ちていた。



夕方、日が西に傾き、町の通りに長い影が伸び始めた頃。

悠人が作業場に現れ、一枚の封筒を差し出した。

「これ、さっき届いた。京都の和菓子組合からの招待状だ」



封を切ると、中には桜月庵宛の手紙が入っていた。

春の展示会への出品依頼──京都でも有名な催しで、多くの菓匠や茶人、料理人が集い、腕を競い合う場だという。



「桜薫を出品してみないか?」

悠人の声は穏やかだが、その奥に期待が滲んでいた。



美咲は一瞬ためらった。

まだ自分は修業の身で、母や椿のような熟練の技を持っているわけではない。

全国から集まる職人たちの中に混じって、本当に通用するのだろうか。



しかし、胸の奥で別の声が囁く。

──せっかくもらった扉を、今、開かなくてどうするの?



「はい。やってみます」

そう口にした瞬間、悠人の表情がふっと和らいだ。

「そうこなくちゃな。じゃあ、展示会までにさらに磨こう」



その夜、閉店後の厨房は、静かでありながら、どこか特別な空気を纏っていた。

美咲はエプロンを着け直し、桜薫の餡を練る準備をする。

そこへ、椿がゆっくりと入ってきた。



「展示会……あんたにとっても、桜月庵にとっても、大事な場になるだろうね」

「でも、失敗したら……」

美咲は手を止め、視線を落とす。



椿はくすっと笑い、彼女の肩に軽く手を置いた。

「春香だって、何度も失敗したよ。それでも続けたから、あの味になった。あんたも同じさ」



その言葉に、美咲は小さく頷いた。

母も、きっと同じように不安と向き合いながら菓子を作っていたのだろう。

その背中を思い浮かべると、不思議と胸の奥に芯が通るような感覚が広がった。



木べらを握り直し、銅鍋の中で餡をゆっくりと練り上げる。

甘い香りがふわりと立ち上り、春の夜の空気に溶けていった。

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