桜の記憶

第37話 記憶の端に

春の展示会当日。
会場は、色とりどりの和菓子と香りで満ちていた。職人たちが思い思いの作品を並べ、来場者はその繊細な造形に目を奪われている。

桜月庵のブースに「桜薫」を並べ終えた美咲は、深呼吸をして周囲を見渡した。
その視線の先──数メートル先のブースに立つ、一人の青年の姿が目に留まる。

白い作務衣姿。背筋は真っ直ぐ、指先は飴細工を撫でるように繊細な動き。
胸元の名札に「藤崎蓮」とあった。

視線が合った瞬間、蓮の表情がわずかに動く。驚きと、どこか懐かしむような色。
彼はゆっくりと歩み寄り、美咲の前に立った。

「……あなたが、佐藤美咲さん?」
低く落ち着いた声に、美咲は一瞬言葉を失う。
「はい。お会いするのは、初めて……ですよね?」

蓮はうなずきながらも、美咲をじっと見つめた。
「初めて……かもしれない。でも、小さい頃の君を、僕は知っている」

その言葉に、美咲の心臓が大きく跳ねた。
交通事故で失った、幼い頃の記憶。そこに自分を知っている人物が現れた──。

蓮は続ける。
「君のお母さん、春香さんと一緒に修業をしていた。桜月庵で……君と一緒に遊んだこともあったよ」

美咲の脳裏に、ふっと淡い光景がよぎる。
薄桃色の着物の女性が笑い、その足元で小さな自分が和菓子の型を握っている──しかし、像はすぐに霧のように消えた。

「……覚えてないけど、何か……懐かしい気がします」
美咲の声はわずかに震えていた。

蓮は優しく笑い、懐から小さな木型を取り出した。
「これ、春香さんが君に渡してたものだ。ずっと預かってた。返すよ」

手のひらに収まる木型を握った瞬間、美咲の胸の奥が温かくなった。
それは、記憶の扉がほんの少しだけ軋みを上げたような感覚だった。
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