桜の記憶

第38話 木型に宿る記憶

会場の喧騒から少し離れ、窓際の静かなテーブルに腰を下ろした美咲と蓮。
手の中の木型は、長年誰かの手に守られてきた温もりを帯びていた。

「春香さんはね、桜の季節になると必ずこの木型で菓子を作ってた。小さな手で型を押す君を見て、“あの子もきっと職人になる”って、よく笑ってたよ」

蓮の言葉は、淡く柔らかい響きだった。
しかし美咲の心の奥底では、何かが静かに波を立てていた。
──型を押す感触、春の匂い、遠くで聞こえる母の笑い声。

「……そんなふうに、私……」
自分でも気づかないうちに、頬が熱くなっていた。

蓮は少し視線を伏せ、続けた。
「でも、あの日を境に……君は桜月庵からいなくなった。事故のことは、椿さんから少しだけ聞いた」

美咲は息を呑む。椿から聞いた話は断片的で、詳しいことは誰も語らなかった。
「……母は、どんな人だったんですか」

蓮は少し考えてから答えた。
「負けず嫌いで、頑固。でも、誰よりも人の心に寄り添える人だった。菓子を作るときは、自分の感情をそのまま形にする。……だから、“桜薫”には春香さんの想いが詰まってる」

“想い”──その言葉に、美咲の胸の奥でまた何かがきらめいた。
ほんの一瞬、母の手が自分の髪を撫でる感触がよみがえった気がした。

蓮は穏やかに笑い、木型を指先でなぞった。
「春香さんは最後まで、君のことを自慢に思ってたよ」

美咲はその場で何も言えなかった。ただ、木型を握りしめ、会場の春の光を見つめていた。
心の中で、失われたはずの記憶が、少しずつ形を取り戻そうとしていた。
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