桜の記憶

第49話 二人の距離

春の夜、桜月庵の帳場の灯りが落ち、店の外は静けさに包まれていた。
 客を送り出した後の座敷には、美咲と悠人だけが残っていた。

「今日は……ありがとうございました」
 美咲が深々と頭を下げる。藤崎に母・春香の話を聞かせてもらった後も、心は揺れ続けていた。

「美咲。あの言葉、胸に残ったか?」
「はい……。『人の笑顔を思い浮かべる』。母も同じように考えていたのかもしれません」

 美咲は小さく微笑んだ。けれど、その微笑みに、悠人の胸は不意に熱くなる。
彼女が迷いの中で見せるその笑顔こそ、今の自分を支えているのだと痛感した。

 しばし沈黙が流れた後、悠人が口を開いた。
「……もし俺が、春香さんのことをもっと知っていたら、美咲に伝えてやれるのに」
「いいえ。悠人さんは、私にとって十分すぎるくらいの存在です」

 はっとして、美咲は言葉を飲み込んだ。だが悠人はゆっくりと頷き、その眼差しを彼女に向け続けた。

「俺も……そうだ。お前がここに来てくれて、本当に良かったと思ってる」

 胸が高鳴る。
 恋心だと気づいてはいけないと頭ではわかっている。けれど、美咲の心はすでに、悠人へと傾き始めていた。




 翌日。桜月庵の厨房では、若女将・梢が美咲を呼び止めた。
「昨日のあの菓子……よくやったね。藤崎先生に認めてもらえたのは大きいわ」
「ありがとうございます。でも、私一人の力じゃありません。悠人さんや皆さんが支えてくださったからです」

 そう言う美咲に、梢は目を細めた。
「あなた、本当に表情が柔らかくなったわね。……もしかして、悠人と何かあった?」
「えっ……な、なにも……」

 慌てる美咲を見て、梢はくすりと笑った。
「隠さなくてもいいのよ。お互いに支え合えるなら、それが一番じゃない」

 その言葉に、美咲の頬は自然と赤く染まった。
< 49 / 52 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop