桜の記憶

第51話 想いを告げる夜

その夜、桜月庵の仕事を終えた後。
 美咲は、悠人に声をかけた。

「悠人さん、少し……お話しできますか?」

 夜風に揺れる提灯の灯り。店の前を通り抜ける風が、どこか優しく背中を押してくれるようだった。
 二人は並んで裏庭に出た。夜空には、春の星が穏やかに瞬いている。

 しばし沈黙が流れる。美咲は胸に手を当て、深呼吸をした。
 今日、大女将に語った「覚悟」。それを、いまこそ悠人に伝えなければならない。

「悠人さん……」
 震える声。それでも美咲は視線を逸らさなかった。

「私……最初は、ここにいることさえ不安でした。記憶を失って、母のことも何も分からなくて……。でも、桜月庵で働きながら、少しずつ自分の居場所を見つけられた気がします」

 悠人は黙って聞いている。その眼差しは真剣で、どこまでも温かい。

「大女将に言われました。覚悟が必要だって。……それで気づいたんです。私にとっての覚悟は、この店を守りたいっていう気持ちと……そして……」

 一瞬、言葉が途切れる。
 鼓動が早鐘のように鳴り響き、息が詰まりそうになる。
 それでも、美咲ははっきりと告げた。

「悠人さんと、一緒に歩んでいきたいという気持ちです」

 言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に溜め込んでいた重さが、ふっと軽くなった。

 悠人の瞳が大きく揺れる。だが次の瞬間、彼は微笑んだ。
「……美咲さん。いや、さくら」

 懐かしむように妹の名を呼びながらも、その声には別の温度があった。

「僕も……ずっと迷っていた。君を妹として守るべきか、それとも一人の女性として想うべきか。でも今日、決めたんだ」

 悠人はゆっくりと美咲の手を取った。温かな掌が重なり、二人の距離が一気に縮まる。

「僕も、美咲さんと一緒に歩んでいきたい。……これからの人生を」

 胸の奥が熱くなる。涙が込み上げそうになるのを堪え、美咲は強く頷いた。

「ありがとうございます……悠人さん」

 星空の下、二人の影が静かに重なった。
 幼い頃の絆を越えて、いま新たな愛の物語が始まろうとしていた。
< 51 / 52 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop