秘めた恋は、焔よりも深く。
日曜の午後に予定されていた美咲の実家訪問は、次週へと延期となった。
龍之介に急な出張が入ったのだ。

「……少し緊張していたから、正直ホッとしたような、残念なような気持ち」
美咲は小さく微笑みながら打ち明けた。

龍之介はスーツのジャケットを手にしながら、彼女の頬に指を触れる。
「すまない。仕事だからな。……けれど、必ず行く。お前の家族に挨拶することは、俺にとって何より大事なんだ」

龍之介は朝から真樹と空港へ直行する予定だった。
玄関で靴を揃えている彼の背に、美咲は小さな声をかける。
「龍之介さんの帰りを、待っているわ」

その一言に、龍之介の動きがぴたりと止まる。
振り返った彼の瞳には、確かな温もりと名残惜しさが宿っていた。
「……ああ。必ず帰る」

やわらかく唇に触れるだけのキスを残し、龍之介は背広の襟を正して扉を開けた。
その後ろ姿を見送りながら、美咲の胸には甘やかな緊張が広がっていた。

龍之介を見送った後、静かになった部屋にひとり残る。
まだ新しい香りのするリビングを見回して、ほんとうにここで暮らしているのだと胸の奥で小さく実感が広がった。

洗面所で軽く化粧を整え、出勤の支度を終える。
いつもと同じはずの朝の道のりが、今日は少し違って見える。

駅へ向かう道すがら、自然と口元に笑みが浮かんでいた。
「龍之介さんの帰りを待つ」の言葉を口にした自分を思い出して、頬が熱くなる。

通勤電車に揺られながら、美咲は窓に映る自分の横顔にそっと問いかけた。
これからの日々を、私はどう育んでいけるだろう…

会社に着く頃には、胸の奥にひとつ小さな決意が芽生えていた。


夜。
湯気の余韻がまだ残る髪をタオルで押さえながら、リビングのソファに腰を下ろす。
慣れない広さの部屋にひとりきり。静けさが少し心細く思えたそのとき、テーブルの上で携帯が震えた。

画面には「龍之介」の名前。もうすぐ日付が変わる頃だ。

「……もしもし」

「美咲か。遅くにすまない。やっと手が空いた」

低い声が耳に届き、胸の奥にふっと灯がともる。

「大丈夫です。お疲れさまです……シンガポールは、もう一日が終わるころ?」

「いや、こっちは一時間遅いだけだ。時差が少なくて助かる。……今、何してた?」

「お風呂を上がったところです」

「……そうか。想像したら眠れなくなりそうだ」

冗談めかす声に、美咲の頬が熱くなる。

「龍之介さんこそ、もう休まなくていいんですか?」

「疲れてても、こうして美咲の声を聞いたら元気になる。……今すぐ帰りたくなった」

電話越しでも伝わる、強い想い。

「仕事、頑張って」

「ああ、ありがとう。お休み」

龍之介との電話を切った直後、ピロリん、と軽快な音が響いた。
携帯に視線を落とすと、仲の良い茶道仲間からのメッセージ。
「ご都合よければ日曜日、ホテルで食事をしない?」
画面に並ぶ文字を読みながら、美咲は小さく息をつく。

龍之介が帰ってくるのは月曜日。
ひとりで過ごす予定だった週末に、思いがけず温かな誘いが舞い込んできた。
美咲は「ぜひ」と返事を打ち、参加することに決めた。


土曜日の午後、美咲は実家に顔を出した。
玄関を開けると、母が「よく来たわね」と笑顔で迎えてくれる。
お茶を入れてもらい、居間に腰を下ろす。
しばらく取り留めのない話を交わしたあと、美咲は少し緊張しながら切り出した。
「……お母さん、聞いてほしいことがあるの」

母が湯呑を置き、じっと美咲を見つめる。
「来週、連れてくるっていう男性のことかしら?」

思わず目を見開いた美咲は、言葉に詰まる。
母はくすっと笑いながら続ける。
「あなた、わかりやすいのよ。顔に“幸せ”って書いてあるもの」

「……そんなに?」
頬がふっと熱を帯びる美咲に、母は穏やかにうなずいた。

母は笑顔を見せ、湯呑を手に取りながら言った。
「私も、お兄ちゃんも楽しみにしているわよ。ふふ」

その声音に、張りつめていた美咲の肩からふっと力が抜ける。
心の奥に、温かい灯がともったようだった。

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