秘めた恋は、焔よりも深く。
美咲は一瞬ためらったものの、専務の真摯な眼差しに気圧されるように
「……ありがとうございます」と小さく礼を言い、そっと腰を下ろした。
柔らかなジャケットの感触が緊張を和らげ、心臓の鼓動がようやく落ち着きを取り戻していく。
隣に腰を下ろした専務は、足を崩しながら壁に背を預け、安心させるような口調で言った。
「こうしていれば少しは楽だろう。焦らなくても大丈夫だ、すぐに復旧するさ」
専務は小さく笑みを浮かべ、美咲の方へ視線を向けた。
「まさか、君と一緒にエレベーターに缶詰状態になるなんて……想像もしていなかったな。
こんなハプニング、学生時代以来かな」
思いがけない言葉に、美咲は目を瞬かせた。
「学生時代に、ですか?」
「ああ。文化祭の準備で、友人と二人、倉庫に閉じ込められてね。おかげで準備どころか、一晩語り明かす羽目になった」
専務の穏やかな声に、美咲の緊張がほどけ、くすりと笑みがこぼれる。
閉じ込められた空間の中に、不思議と柔らかな空気が流れはじめた。
「どんなことをご友人の方と語り明かしたんですか?」
美咲が興味深げに問いかけると、専務は少し目を細めた。
「……人生について、だな」
天井を仰ぐように一瞬間を置き、柔らかく笑う。
「お互い、将来会社を継ぐことが決まっていてね。青臭い経営理論やら、理想ばかりを熱く語っていた。
今思えば、青二才の夢物語だよ」
懐かしむように語るその声音には、過ぎ去った時間を慈しむ響きがあった。
美咲は自然と、専務の内面にある静かな情熱を感じ取っていた。
「専務は、実際にその道を歩んでこられたんですね」
美咲がそう口にすると、専務は小さく頷いた。
「そうだな……俺は今も歩いている」
その言い方に、どこか含みを感じた美咲は、思わず問いかけてしまう。
「ご友人の方も……ではないのですか?」
専務は一瞬、遠くを見つめるように視線を落とした。
「彼はね、志半ばで病に倒れてしまったんだ」
声に沈む哀惜の響き。
エレベーターの閉ざされた空間に、静かな時間が流れる。
美咲は何も言わず、ただそっと目を伏せた。
それだけで、彼の胸に宿る深い哀しみを尊重しようとしているのが伝わる。
専務はその沈黙を責めることなく、むしろ安らぎを得たように微かに息を吐いた。
「……ありがとう、佐倉さん」
彼の口からこぼれたその言葉は、慰められた人間の穏やかさを帯びていた。
「いえ、私は何も」
美咲が静かに首を振ると、専務はふっと笑みを深めた。
「いや……思い出したんだ」
一瞬、彼の眼差しが遠くを見ていた。
「生きている、それだけでいい」
閉ざされたエレベーターの中、専務の声には、苦い過去を包み込むような静かな力強さがあった。
美咲はその言葉を胸に受け止めながら、なぜか心が少しだけ和らいでいくのを感じていた。
その時、エレベーターのスピーカーから低いノイズ混じりの声が響いた。
「大変申し訳ございません。ただいま復旧作業を進めております。
……およそ三十分ほどで再開の見込みです。どうぞご安心ください」
美咲は胸を撫で下ろし、思わず小さく息をついた。
「よかった……」
「佐倉さんは今日、デザートを食べたのかな?」
「はい、今日は仲間内の誕生日会だったんです。だから、ホールケーキで締めくくりました」
「いいね。何のケーキだったの?」
「モンブランです!」
なぜか誇らしげに答える美咲に、専務は思わず口元をほころばせた。
「モンブランかあ……。俺は栗はどうもね」
「栗のどこがいけないんですか?」
「どこが、といわれても……そうだな、あの見た目かな」
「見た目?」
美咲は目を丸くする。
「じゃあ、専務はモンブランを食べたことがない、ということですか? あんなにおいしいのに」
残念そうに言う美咲の声に、専務はふっと笑いながら肩をすくめた。
「……そこまで言うなら、今度挑戦してみるよ」