秘めた恋は、焔よりも深く。
会議の帰り、資料を片手に廊下を歩いていた佐倉が、ふと立ち止まってエレベーターを待っていた。

タイミングが重なっただけ。
そう思わせるには、俺の足がほんの少し速くなりすぎていたかもしれない。

「佐倉さん」

「……黒瀬さん、お疲れさまです」

落ち着いた声。視線は手元の資料。
いつも通りだ。
でも、俺のほうは、いつも通りじゃいられなかった。

「さっき、滝沢社長の会議で、例のプロジェクトチームの食事会が決まりました。
来週の金曜日ですが、オフィシャルなものではなく、懇親会的なものです。」

「……そうなんですね。場所は?」

「私がまとめて予約しておきますので、時間だけ空けておいてください。
関係部署全員に声をかける予定ですので、佐倉さんも含まれています。」

「はい。承知しました。」

また、仕事のやり取り。それだけのはずだったのに。

「……佐倉さん、そういった場は得意ですか?」

「どちらかというと、苦手です。」

「……そうですか。では、私の近くにいてください。
変なことにならないように、フォローしますので。」

言った後、少しだけ彼女の眉が動いた。
「それって、“苦手な人”をまとめて座らせる、あれですか?」

「いえ、そんなつもりではありませんでしたが……そう聞こえましたか?」

「……少しだけ。」

言葉だけ聞けば冗談の応酬。
でも俺は、ちゃんと見ていた。
目線、指先、声の調子。
どれも、まだ“揺れてない”。

まだ、届いてないんだな。
それでもいい。
まずは近くに座らせる。それだけで、今日の目的は達成だ。

エレベーターのドアが開き、彼女が一礼して乗り込んだ。
すぐ閉まる銀の扉の向こうで、ほんの一瞬だけ、顔が緩んだ気がした。

……あれを、笑顔と呼んでいいのかどうか。
判断がつかないから、もっと見たくなる。
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