秘めた恋は、焔よりも深く。
社のご用達の料亭に一番乗りで入ったのは、他でもない俺だった。
上座でもなく、中央の位置でもない。あえて下座に並んで座ることにした。
俺の段取りの中で、そう決めていた。
「黒瀬さん、こちら……?」
「ええ、周囲が重役クラスだから、そこが一番自然。落ち着くと思いますよ」
「……ありがとうございます」
そう言って座った佐倉は、相変わらず整った仕草で膝の上に手を置いた。
姿勢がいい。会話に入りすぎず、引きすぎず。
“いつもの佐倉”だ。
でも、俺の隣に座ってる。それだけで、少し胸がざわつく。
乾杯の音頭を取り、料理が並び始めた頃。
ふと、グラスを持った彼女の指先が少し震えているのに気づいた。
疲れてるのか。緊張してるのか、それとも、ただ寒いだけか。
「これ、頼みすぎたな。ちょっと取り分けてもらっていいですか?」
「はい。私でよければ」
手際よく取り皿を配る美咲に、向かいの若手社員たちが軽く頭を下げる。
彼女は自然に応えるけれど、笑わない。
……その笑顔を、俺が見てみたい。
「佐倉さん、これ食べますか??甘いの、いけるタイプですか?」
「……少しだけなら。ありがとうございます」
その返事に、ようやくごく小さな笑みがにじんだ。
表情筋が一瞬だけ緩んだその顔を、俺は真横で、誰より近くで見ていた。
(ああ、やっぱり。こういう顔、もっと見たくなる)
この人を、好きになってはいけない理由なんて、とっくになくなっていた。
宴が終わり、料亭の玄関をあとにしてから、
俺はまっすぐ自宅に戻った。
ジャケットを脱いだまま、冷えたミネラルウォーターをひと口。
そのときふと、さっきの彼女の顔が脳裏によみがえった。
取り皿を差し出したときの、あの一瞬の笑み。
笑ってなんかいないようで、
けれど、口元がほんのわずかにやわらいだ、あの表情。
ああ、そうだ。
あのときと、同じだった。
数か月前。
部門間の調整で、社内がギスギスしていたとき。
滝沢の代理で現場に入った俺は、そのとき初めて、彼女の“素の気配”に触れた。
佐倉美咲は、冷静だった。
誰も責めず、過不足なく動き、結果を出した。
そのあと、エレベーター前で偶然ふたりきりになったとき。
「……お疲れさまでした」と言った俺に、
「黒瀬さんも、今日はありがとうございました」
と返したその声が、やけに柔らかくて。
そのとき、彼女が、一瞬だけ笑った。
ほんの、気のせいかもしれない程度に。
でも確かに、口角がゆるんでいた。
……俺はたぶん、あの瞬間に惚れたんだと思う。
それ以来、声を聞くだけで気づくようになった。
資料の持ち方、香水の種類、爪の色の変化。
誰より静かに生きている人の、ほんのわずかな変化が、俺の感情を狂わせた。
今夜の笑みも、きっと、誰も気づいてない。
けれど俺は、また見てしまった。
あのときと、同じように。
静かに、でも確かに。
惚れ直した気がした。
上座でもなく、中央の位置でもない。あえて下座に並んで座ることにした。
俺の段取りの中で、そう決めていた。
「黒瀬さん、こちら……?」
「ええ、周囲が重役クラスだから、そこが一番自然。落ち着くと思いますよ」
「……ありがとうございます」
そう言って座った佐倉は、相変わらず整った仕草で膝の上に手を置いた。
姿勢がいい。会話に入りすぎず、引きすぎず。
“いつもの佐倉”だ。
でも、俺の隣に座ってる。それだけで、少し胸がざわつく。
乾杯の音頭を取り、料理が並び始めた頃。
ふと、グラスを持った彼女の指先が少し震えているのに気づいた。
疲れてるのか。緊張してるのか、それとも、ただ寒いだけか。
「これ、頼みすぎたな。ちょっと取り分けてもらっていいですか?」
「はい。私でよければ」
手際よく取り皿を配る美咲に、向かいの若手社員たちが軽く頭を下げる。
彼女は自然に応えるけれど、笑わない。
……その笑顔を、俺が見てみたい。
「佐倉さん、これ食べますか??甘いの、いけるタイプですか?」
「……少しだけなら。ありがとうございます」
その返事に、ようやくごく小さな笑みがにじんだ。
表情筋が一瞬だけ緩んだその顔を、俺は真横で、誰より近くで見ていた。
(ああ、やっぱり。こういう顔、もっと見たくなる)
この人を、好きになってはいけない理由なんて、とっくになくなっていた。
宴が終わり、料亭の玄関をあとにしてから、
俺はまっすぐ自宅に戻った。
ジャケットを脱いだまま、冷えたミネラルウォーターをひと口。
そのときふと、さっきの彼女の顔が脳裏によみがえった。
取り皿を差し出したときの、あの一瞬の笑み。
笑ってなんかいないようで、
けれど、口元がほんのわずかにやわらいだ、あの表情。
ああ、そうだ。
あのときと、同じだった。
数か月前。
部門間の調整で、社内がギスギスしていたとき。
滝沢の代理で現場に入った俺は、そのとき初めて、彼女の“素の気配”に触れた。
佐倉美咲は、冷静だった。
誰も責めず、過不足なく動き、結果を出した。
そのあと、エレベーター前で偶然ふたりきりになったとき。
「……お疲れさまでした」と言った俺に、
「黒瀬さんも、今日はありがとうございました」
と返したその声が、やけに柔らかくて。
そのとき、彼女が、一瞬だけ笑った。
ほんの、気のせいかもしれない程度に。
でも確かに、口角がゆるんでいた。
……俺はたぶん、あの瞬間に惚れたんだと思う。
それ以来、声を聞くだけで気づくようになった。
資料の持ち方、香水の種類、爪の色の変化。
誰より静かに生きている人の、ほんのわずかな変化が、俺の感情を狂わせた。
今夜の笑みも、きっと、誰も気づいてない。
けれど俺は、また見てしまった。
あのときと、同じように。
静かに、でも確かに。
惚れ直した気がした。