秘めた恋は、焔よりも深く。
日曜の午前。
コーヒーの香りが部屋に広がる中、美咲のスマートフォンが静かに震えた。
画面には「母」の文字。
少しだけ姿勢を正してから、通話ボタンを押す。

「……元気にしてるの?」

母の声は、相変わらず少しだけ緊張を含んでいる。
娘にあれこれ口を出したくはない。でも、心配はしている.......そんな空気。

「うん。ちゃんと食べてるし、元気だよ」
笑って返すと、電話の向こうで小さく安堵する気配があった。

母は最近、実家の近くに引っ越してきた美咲の兄夫婦の話を始めた。
「二人のこと、聞いた?すごく大きくなったのよ。
陵介は剣道をやってて、県大会に出ることになったんだって。葵はダンスを習い始めたらしいの。」

「そうなのね。どんどん大きなっているね」

「ほんと、あっという間だね……。あなたも、小さかったのに。」
母の声が少し温かく、懐かしさを含んでいる。

少しの沈黙のあと、母がぽつりとこぼすように言った。
「……その、いい人……いないの?」

その問いには、長年の気遣いと迷いが滲んでいた。
美咲がかつて、前の夫の家族に「子どもができない女なんて」と責められ、
深く傷ついたことを、母は誰よりも知っていたから。
あれ以来、母はこの手の話題を、ほとんど出してこなかった。

「今はいないの」
美咲はふっと息を吐き、柔らかな声で続けた。
「……でも、もしそういう人が現れたら、ちゃんと報告するね」

「そう。……それなら、いいの」
母の声が、少しほぐれたように感じた。

「お母さんはね、ただ、あなたが笑っていてくれたらそれでいいのよ」
胸の奥に、小さな温もりが灯る。
美咲は、電話越しに小さく微笑みながら頷いた。

「ありがとう。ほんとに、元気だから。大丈夫」

そして、あえて明るい口調で「じゃあ、またね」と言って、
通話を静かに終えた。
切れた画面を見つめながら、美咲は少しだけ目を伏せる。
母の優しさが、静かに心に染みていた。

穏やかな陽の光に包まれながら、ふと金曜の夜の飲み会を思い出す。

「佐倉さんみたいに綺麗で、仕事もできるのに、ひとりでいるのはもったいないですよ」
そう言って笑ってくれた部下の言葉が、妙に心に残っていた。

もったいない……か。
これまで自分では、そんなふうに思ったことはなかった。
誰かと過ごす未来を、自分の選択肢として考えたことも、しばらくなかった気がする。
でも。
「いい人がいたら、食事くらい……してみても、いいのかもしれない」

声には出さず、心の中でそっとつぶやいてみる。
それは決意でも、宣言でもなく、
ただ小さな一歩。自分に対する、優しい許可。

窓の外では、風に揺れる洗濯物が、やわらかな音を立てていた。
ふと、湯気の立つカップを両手で包み込みながら、
美咲は昨夜のことを思い出していた。
黒瀬と並んで歩いたキャンプ専門店。
そのあと向かった、落ち着いた雰囲気のレストランと、香り高いコーヒー。

穏やかで、静かな時間だった。
会話も自然で、気を張ることなく笑えた。
……でも。

「黒瀬さんとは、上司と部下よね?」
ぽつりと、独り言のように呟いてみる。

どれだけ穏やかでも、どれだけ優しくされても、
あんなに有能で、周りの信頼も厚くて、きっと女性にだって困っていないような人。

「私なんか、釣り合わないし……」
自嘲するように笑って、カップに視線を落とした。
だけど、どうしてだろう。
あのときの声の低さとか、手を取られたときのあたたかさとか、
思い出すたびに、胸の奥がほんの少しざわめく。
それが「何の感情」なのか、
美咲自身はまだ、気づいていなかった。
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