秘めた恋は、焔よりも深く。
目を覚ましたのは、いつもより遅めの朝。
「……あれ、もうこんな時間」

寝ぼけまなこで時計を見やり、ゆっくりと上半身を起こす。
昨日は少し歩きすぎたのか、足が軽く重たい。
洗面所で顔を洗いながら、昨夜のことを思い返す。

松田専務の言葉はどれも丁寧で、こちらの心情に寄り添うものだった。
でも、どこかで「無理に合わせようとしている自分」がいたのも事実だった。

(……申し訳ないくらいに、誠実な人だったのに)

ふと、胸の奥に小さな棘のような感触がよぎる。

(じゃあ、どうして?)

夕方の街で別れたあと。
一人きりで歩いた帰り道。
頭に浮かんでいたのは.....松田ではなく、黒瀬龍之介の横顔だった。

(……また、あの人のことを思い出してる)

こっそりと、自分に驚く。
あの夜、助けられて。
キャンプ用品店で偶然再会して。その後、コーヒーを飲んで。
趣味の話で笑いあった。

……ただそれだけなのに。

ほんの少しずつ、黒瀬という人が、自分の中に染み込んでいるような気がした。

「……だめね、私」

美咲はそう呟いて、タオルでそっと顔を拭いた。
けれど、心のどこかが、ほんのすこしだけあたたかかった。
遅めの朝食を済ませてから、淹れたてのコーヒーを片手に、美咲はソファに腰かける。
ノートパソコンを開き、不動産サイトを開くと、たくさんの物件が並んだ画面が現れた。

「……どこにしようかな」

今の住まいを離れることが決まってから、ようやく現実感を持って“これから”を考え始めている。
心のどこかに、さみしさとわくわくが混じった、不思議な感覚が広がっていた。
そんな中、ふと目にとまった物件があった。

(……ここ)

駅から徒歩圏内。
間取りはコンパクトながら、リビングには大きな窓。
内装もどこか落ち着いていて、写真から伝わる空気感が心地よかった。

(なんか……好きかも)

指先でスクロールしながら、気がつくと何度も同じ写真に視線が戻っている。

「……聞いてみようかな」

思い切って、記載された不動産会社の番号に電話をかける。

「はい、不動産〇〇です」

「すみません。ウェブサイトで掲載されていた◯◯エリアのマンションの件でお伺いしたいのですが、内覧の予約は可能でしょうか?」

電話越しの担当者は丁寧に対応してくれ、来週の平日の夕方であれば調整可能とのことだった。

< 55 / 153 >

この作品をシェア

pagetop