秘めた恋は、焔よりも深く。
店を出ると、夕暮れの街はすっかり夜に包まれていた。
週末らしく、賑やかな声がすれ違いざまに響く。

「よければ、お送りしましょうか?」
松田の落ち着いた声が背後からかかった。
その提案は、自然で、押しつけがましさのないものだった。

しかし、美咲は軽く首を振って、笑みを添えた。
「ありがとうございます。でも……今日は遠慮させていただきます」

松田は一瞬だけ言葉を飲み込み、やがて納得したように頷く。
「そうですか。それなら、お気をつけて」

「はい。今日は本当に、いろいろとありがとうございました」

深く頭を下げる美咲に、松田は穏やかに微笑み返した。
「また、何かあればいつでも。いい物件があればご紹介します」

「そのときは、よろしくお願いします」
軽く会釈し、美咲は静かに歩き出す。

夜風が、昼間の熱をそっと冷ましてくれる。
一歩ずつ、足元に視線を落としながら、美咲は少しずつ胸の奥を見つめていた。

(……誰かに何かを話すって、勇気がいるけど。話してよかったのかもしれない)

肩の力が抜けていた。
昔の自分なら、こうして人に過去を話すなんてできなかった。
信じることや、ゆだねること。
そのひとつひとつが、今の自分を少しずつ作っている気がして。
信号待ちの間に、スマートフォンを取り出す。
画面を眺めたまま、ふと、あの人の名前を思い出す。

(……黒瀬さん。今、何してるんだろう)

自分でも、驚くほど自然に、彼の顔が浮かんだ。
美咲は小さく息を吐き、信号が青に変わったのを見て、再び歩き出した。

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