秘めた恋は、焔よりも深く。
その日、慌ただしく仕事を終えて帰宅した美咲は、ようやくヒールを脱いで息をついた。
(今日は一日、心臓が落ち着かなかった……)
森川の「可愛い」という無邪気な言葉が、どうしても頭から離れない。

ソファに腰を下ろした瞬間、スマホが震えた。画面を見た途端、胸の奥がきゅっと熱を帯びる。

龍之介。

『連絡しなくてすまない。今夜寄っていいか? 会いたい。それとも、どこかで食事するか?』

(……っ、急に……)
短い文面なのに、低い声がそのまま耳に響くようで、美咲の胸はまた跳ねた。
会いたい、とストレートに書かれていることが、どうしようもなく嬉しい。

指先が震え、すぐに返信できずに画面を見つめたまま、頬が熱くなっていく。

美咲は少し迷ったあと、画面に指を滑らせた。
『うちで鍋にしましょうか? お時間はいつごろになりそうですか?』

数分もしないうちに返信が届く。
『いいな。鍋、楽しみだ。8時ごろで大丈夫か?』

短い返事なのに、文字の向こうから笑みが浮かんでくるようで、美咲の心臓はさらに高鳴った。

(……8時。あと1時間ちょっとで、また彼に会える)

美咲は炊飯器に米をとぎ、タイマーをセットした。
「……これでご飯は大丈夫」
小さくつぶやきながら、買い物メモを手にバッグを肩にかける。

玄関を出ると、夕暮れの風が頬をなでた。
まだ夏の名残を抱えながらも、空気にはかすかに秋の冷たさが混じりはじめている。
街路樹の葉先はところどころ色づき、日が落ちるのも早くなった。
(……食欲の秋、ね)
スーパーへ続く道を歩きながら、思わず口元がゆるむ。

スーパーに入ると、店内には夕方のにぎやかなBGMと人のざわめきが広がっていた。
美咲はカゴを片手に、まず精肉コーナーへ足を向ける。

「豚肉は……薄切りがいいかしら」
パックに並んだしゃぶしゃぶ用の肉を手に取り、しばらく見つめる。

(しゃぶしゃぶ用なら食べやすいし、脂も落ちるわね。忙しそうだし、きっとお腹もそんなに重たいものは欲しくないはず)

次に野菜売り場。
かごに白菜と長ネギ、舞茸、えのきを入れていく。
さらに豆腐や春菊を手に取りながら、棚に並ぶ里芋に目を留めた。
(秋らしく、里芋も入れましょう。……きっと喜ぶ)

八時を過ぎたころ、スマホが震えた。
『悪い、三十分ほど遅れる』

画面を見つめ、美咲は小さく息をつく。
『わかりました。気をつけて』
そう返信し、スマホをテーブルに置いた。

鍋はすっかり整えられ、食器も並び、準備は万端。
けれど、その分だけ待つ時間がぽっかりと空いてしまう。

(……どうしよう、落ち着かない)

自然と寝室へ足が向き、鏡の前に立った。
映るのは、紺色のゆるっとしたロングワンピースをまとった自分。
肩から流れる髪は、金のクリップでハーフアップにまとめてある。
少しだけ揺れるクリップが、どこか控えめに華やかさを添えていた。
美咲は指先で髪を整え、唇に軽く口紅をひき直す。
鏡に映る自分の頬は、期待と緊張でほんのり赤く染まっている。

(ただの食事……なのに、どうしてこんなに気になるんだろう)


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