モカアート〜幼馴染と恋人ごっこしてみた〜
「うわーんどうしよう…!」

 パソコンを前にして、柳百禾(やなぎもか)は頭を抱えた。
 パソコン画面には、真っ白な原稿が鎮座している。無言の圧力をかけてくる純粋なまでの白に、百禾は涙目になった。

 百禾は、「モカ」というペンネームで小説の創作活動をしている。大学に入学してから、小説投稿サイトに自作を投稿していた。

 百禾は何よりも読書が好きで、小学生の頃から本に齧り付いている生活を送っていた。
 休み時間になればすぐに本を開き、読み終われば颯爽と図書室に駆け込んで次の本を探す。偉人の伝記、ミステリー、ファンタジー、哲学、論文、ジャンルを問わず読み漁った。

 そのおかげか、ついたあだ名が「本の姫」だ。

 それでも気にせず本に没頭した。そしてある時、読んでいた本の展開に引っかかった。

 自分ならこの展開にしない。主人公たちの選択も一理あるが、別の道だってあるはずだ。

 そう思って、ノートにその作品の別ルートを書き始めた。俗に言う、二次創作というやつである。
 それがきっかけだった。
 それから、キャラクターから何まで自分で考えた物語を、ノートに書き始めた。
 小説を書くことは、驚くほど楽しかった。自分で生み出したキャラクターたちは、可愛くて仕方がない。自分がこの子たちを幸せにしなくては、という気持ちまで湧き上がって来る。

 そして、百禾は大学生になった。
 教育学部を専攻し、アルバイトもしながら小説を書いている。
 大学生になってから、小説投稿サイトに自作を投稿し始めた。初めはなかなか読んでもらえなかったが、投稿を続ける内に、少しずつ反応をもらえるようになってきた。

 そんな時、一作目から応援してくれていて、コメントも常にしてくれる『きなこ』さんからリクエストがあった。

 曰く、「モカさんの恋愛小説が読んでみたい」、と。

 百禾は頭を抱えた。
 百禾は恋愛にとことん疎い。恋人は本と言っても過言ではないほど、本と共にある生活を送ってきたのだ。
 もちろん、恋愛小説は読んだことはある。
 だが、それは本の中の世界のことで、自分の身に降りかかるものではなかった。
 百禾が書く物語は、専らファンタジーやミステリーばかりだ。それなら、自分が経験していなくても、妄想することで創り出していくことができる。装備やトリックなど、一から生み出していくことは楽しくて、パソコンを打つ手が止まらない。

 だが、恋愛になると途端に分からなくなる。

 きゅんきゅんするポイントってどこ⁉︎どんな仕草にドキッとするの⁉︎恋に落ちるって、どんな時⁉︎

 読者第一号の『きなこ』からの、折角のリクエストなのだ。それを無碍にすることなんてできない。かといって、書いたことのないジャンルに、百禾は敗北しかかっていた。

「おい、不審者みたいになってるぞ」

 その時、ポンと頭を軽く叩かれた。顔を上げると、端正な顔の男が、呆れた顔をして百禾を見下ろしている。

「あ、玲央(れお)。久しぶり」
「おー久しぶり。で、本の姫は現実の世界に帰ってきたか?」

 そう言われて、百禾はハッと辺りを見渡した。
 ここは百禾行きつけのカフェである。大学の課題や小説を書く時に利用している。穏やかなBGMと目に優しい灯り、店内に漂う珈琲の香りが心地よくて、百禾の大切な居場所だった。
 そんなところで不審な動きをして訝しげな目線を向けられては、恥ずかしくてここに来ることができなくなってしまう。それは困る。
 百禾は首をすくめると、玲央に隣の席をすすめた。

「…座って座って」
「そりゃどうも。で?何をうんうん唸ってたんだ?」
「それがさぁ〜…。『きなこ』さんから恋愛小説を書いてほしいって言われたんだけど、さっぱり内容が思いつかなくって…」
「『きなこ』さんって…ああ、百禾の小説を全部読んでる物好きな読者な」
「失礼なっ!」

 百禾はムッと唇を尖らせると、ポカッと玲央の脇腹を叩いた。

「私のファン一号になんてこと言うのよ!大体、玲央なんて全然本を読まないじゃない」
「本読んでるくらいならヘアカットのカタログ見るっつーの。…細かい文字が苦手なんだよ、悪かったな」
「別に悪いなんて言ってないよ。本苦手な人だっているしね。でも、『きなこ』さんのことをあんな言い方するのは別の話だから!」
「はいはい、悪うございました」
「気持ちがこもってない!」

 ベーと舌を出す玲央に、百禾はググッと拳を握りしめた。
 相変わらず減らず口を叩く男である。なまじ顔が良いだけに、大抵の粗雑な言動は見逃されがちなのだ。顔に騙される女性たちの何と多いことか。

「あーあ、なんで昔から玲央がモテるんだろうなぁ。性格はこんなにへそ曲がりなのに」

 学生時代には、玲央に泣かされた同級生たちが五万といた。そして振られた少女たちは、大抵百禾に泣きついてきたのだ。

「そんなの、顔に寄ってきてるだけだろ」
「うわー嫌味だぁ。玲央の幼馴染ってだけで、私がどれだけ苦労したことか。振られたー!って私の前でざめざめ泣き出す、名前も知らない同級生を慰めないといけなかった私の気持ち分かる?」
「わかんね」
「でしょうね」

 玲央は中学生になってから急にメキメキと身長が伸び、同級生の中でも抜きん出て大人っぽかった。
 クールな眼差しとサラサラな黒髪、更に文武両道とくれば、モテないはずがない。

 そんな彼の幼馴染である百禾は、当然好機の目に晒される。下世話な噂も立てられたことがあったが、百禾が玲央とどうにかなるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。
 いかんせん、玲央の性格がへそ曲がりで面倒くさくて、百禾の大切な読書時間を散々邪魔されてきたのだ。恋に落ちる方がどうかしている。

 百禾から「恋愛」の「れ」の字も出てこないと、同級生たちは早々に悟った。その結果、百禾は、玲央に振られた少女たちの駆け込み寺になってしまったのである。

「そもそも、俺に顔も名前も覚えられてないってのに、急に好きとか言ってくるんだぞ。それこそおかしいだろ。見ず知らずの奴に急に好意を示されて、断ったら泣かれるこっちの気持ち分かるか?」
「分かんない。そんな人に告白されたことないし」
「おーい本好き。想像してみろー」
「や・だ」

 今度は百禾がベーと舌を出す。玲央は梅干しを口に放り込んだような顔をして、そっぽを向いた。

「…それで、何か俺に用があったんだろ?なんだよ」
「あ、そうそう。玲央、読みたい漫画があるって言ってたでしょ?それ弟が集めてて、全部読み終わったらしいから貸すよって話」
「ほー。それはありがたいな。で?その漫画はどこにあるんだよ」
「…?あ」

 百禾はキョロキョロと足元を見回した。
 持ってきたと思っていた紙袋が見当たらない。
 そういえば、恋愛小説に頭がいっぱいで、目的の物を玄関に置いてきてしまった。

 硬まった百禾の様子に、玲央は事態を察したようだ。半目になって百禾を見ている。

「……相変わらずドジだな」
「う。返す言葉も見当たらない…。玲央、この後時間ある?」
「ある。ていうか、今日は美容院が定休日だから、俺も休み」
「良かった。じゃあ家に来て。玄関に置いてきちゃったんだよね〜」
「は⁉︎」

 前橋玲央は美容院で働く美容師だ。まだ大学生の百禾より早く社会人になった玲央は、百禾ほど自由な時間がない。時間がある時に渡してしまいたかった。

 そうと決まれば行動は早い。百禾は手早くパソコンを閉じると、鞄にしまって立ち上がる。玲央はなぜか頭を掻きむしって何事かぶつぶつ言っていたが、やがて大きなため息をついて椅子から立ち上がった。

 飲み終わったコーヒーカップを片付ける百禾の姿を尻目に、玲央は小さく文句を言う。

「…無警戒にも程があるだろ、百禾のやつ」



 百禾は大学の近くで一人暮らしをしている。
 実家は電車でニ時間ほどのところにある。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離だが、百禾が自立したいと両親に直談判したのだ。

 モノクロのシックな建物が、百禾の一人暮らしのマンションだ。玲央は物珍し気に辺りを見渡していた。エレベーターで三階まで上がり、突き当たりが百禾の生活している部屋だ。

 途中で同じ階に住んでいる男性とすれ違う。ゴミ捨てで出会う見知った顔なので、ぺこりと会釈しあって通り過ぎる。
 玲央は眉を顰めて百禾に顔を近づけた。

「なあ、男も同じフロアに住んでるのかよ」
「当たり前でしょ。何言ってんの?」
「もうちょっと警戒心をだな…」
「玲央までお父さんみたいなことを言う〜」

 マンションを決める時に、似たようなやり取りを父ともしている。百禾はうんざりとため息をついた。

「大丈夫だってば。部屋に鍵だってちゃんと掛けるし」
「そう言う問題じゃないだろ」

 割と本気な顔をする玲央に、百禾は首を傾げる。玲央の心配していることは分かるが、これでもちゃんと考えているのだ。
 自分の身に降りかかるわけがないと思っていたら危ない。当事者になる可能性を考えて対策を練るべきなのは当然だ。

「第一、玲央に言われることじゃないし〜。あんたは私のお父さんかっ!」
「違うからこそ言ってるんだろ」
「ほんとに大丈夫。これでも対策はしてるし。防犯も考えて、ちゃんとグッズ買ってるし、チェーンもちゃんとつけてるよ」
「…男を無防備に部屋に上げようとしてる時点で、対策の意味無くなってるだろ」
「だって玲央だもん」

 玲央が百禾を女として見ていないのはよく分かっている。百禾も、玲央だからこそ部屋に上げているのだ。見境なく男を部屋に入れているなんて誤解されては心外である。

 玲央が唸っているのを横目に、百禾は部屋の鍵を開けた。玲央を促して中に入り、鍵をかける。玄関に入れば、目的の物はすぐに見つかった。

「あ、あった!」

 弟が集めていた、鬼と呪いのアクション漫画だ。五年の連載を経て、最近完結したらしい。終わり方が感動的だと、弟が家でざめざめ泣いていた。
 それを全巻借りて紙袋に入れていたのだが、すっかり持っていくのを忘れていたのだ。

 紙袋はちんまりと廊下に鎮座していた。
 一人暮らしの部屋は、玄関を入ってすぐに細長い廊下と備え付けのキッチンがあり、その奥がワンルームになっている。見通しの良い部屋なので、廊下にポンと置き去りにされた紙袋はよく目立った。

 百禾がパンプスを脱ごうとすると、玲央に左手を掴まれた。そのままくるりと身体を回転させられる。
 背中が玄関のドアにつき、両手は玲央によって封じ込められていた。
 玲央の見慣れた端正な顔が、今までにないほど近くにある。化粧をしていないのに毛穴ひとつ見つからないきめ細かな肌が、間近にある。鼻先が触れ合いそうな距離に、百禾は眉を顰めた。

「急に何?放してほしいんだけど」
「無防備にもほどがあるだろ。百禾、お前今の状況分かってるか」
「分かってるよ。なぜか玲央に行手を阻まれてるんだよね」
「それだけじゃないだろ。自分の貞操の危機だろーが」
「うわーそれ言っちゃう?私を押さえこんでる張本人が?」
「……」

 玲央はグッと黙り込むと、しかし百禾の耳元に唇を近づけた。百禾の甘い香りが鼻腔に広がるのを感じながら、玲央は小さく囁く。

「こうなっても、百禾は抵抗できないだろ」
「ちょっ…!」

 玲央の吐息が耳に触れた途端、百禾は足から力が抜けた。

 玲央がギョッとして、崩れ落ちた百禾の腕を引っ張り上げる。かろうじて立ち上がった百禾は、ふるふると震えながら玲央を睨みつけた。

「何するの⁉︎耳こそばゆいよ」
「いや…悪い……」

 百禾の思いがけない反応に、玲央も驚いているらしい。うろうろと目線を泳がせている。
 動揺しているようで、玲央は口元に手を当ててそっぽを向いていた。
 百禾は玲央を恨めし気に睨みつけたが、ふと脳内に閃きが落ちてきた。

「あ、これいいんじゃない⁉︎」
「は?」
「玲央、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「私と恋人になってよ」
「………はあ⁉︎」

 突然の百禾の申し出に、玲央は目玉が飛び出た。

「何言ってんだ」
「玲央って、今彼女いないよね?」
「今どころかできたことないけどな」
「それが不思議だけど、まあいいや」
「何がいいんだ」
「でね、私、恋愛小説に悩んでたでしょ?」
「人の質問に答えろよ」
「玲央が恋人役になってくれたら、疑似恋愛を学んで小説に活かせるんじゃないかと思って!そうだよこの手があったじゃん!」

 ナイスアイデア!と手を叩いて喜ぶ百禾を、玲央はギロリと睨みつけた。

「おい、何がナイスアイデアだ」
「あ、やっぱり嫌?それならいいよ、誰か他の人に頼むから。えーと、誰なら頼めるかな」

 知り合いの男たちの顔を思い浮かべたところで、玲央が百禾の手首を握った。そのまま百禾はぐっと手を引かれ、玲央の胸元に倒れ込む。玲央の胸板に頬がぶつかる。玲央の体温が百禾の頬に伝わってきた。

「俺にしろ」

 低く呟いた玲央の言葉が、百禾の脳内辞書に刻まれた。

「今の、良かったんじゃない⁉︎」

 ガバッと玲央から身体を起こして、百禾が目をキラキラさせた。それに対して、玲央は拍子抜けした顔だ。

「うんうん、いい感じ!数多の女を落としてきた玲央なら、良い小説のモデルになりそう!ありがとう、玲央!」

 輝かんばかりの笑顔を向ければ、玲央はため息と共に頭を掻きむしった。

「……はいはい、お役に立てたようで光栄デス」
「えへへ〜!待ってて『きなこ』さん!きっと渾身の恋愛小説を書いてみせるから!」

 喜びのダンスを舞う百禾に、玲央は呆れた目を向ける。

 だが、昔から百禾に勝てた試しがない。いつだって玲央が押し負けてしまう。
 周囲をパッと明るく照らすあの笑顔に、玲央は殊更弱かった。

 見ず知らずの誰かを百禾の恋人役にするくらいなら、玲央がその役を担う。

 百禾に男として見られていないのは十分に知っていた。だが、役でも恋人になれるなら役得だ。
 喜んでいる百禾を見つめて、玲央は柔らかく微笑んだ。
 
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