恋の終わりには綺麗な果実を添えてお送りします。
遅い。
腕時計の針が、もうとっくに約束の20時を過ぎている。
遅い。
メッセージの通知は・・・遅れているのにまだない。
遅いなあ。
まあいつものことだけど。
待ち合わせ場所は渋谷駅のモアイ像前。待ち合わせ時間は20時。現在20時30分。すでに30分間も遅刻しているのに連絡はない。待ちきれない想いで数秒に1回はスマホの画面を確認しているが1件も通知が来ないまま今に至る。今日は付き合った記念日のデートではない表向きには普通のデートの日だが、実は私が裕哉を好きになった日記念日ではあるからドタキャンなんてされたら絶対納得できない。それぐらい私にとっては大切な日だ。
彼氏の裕哉とは大学のゼミで出会い、私からのもうアプローチによって交際に至った。裕哉は真面目な性格で、いつも10分前行動をしないと気が済まないタイプだ。私からのもうアプローチによって付き合い始めたとはいえ、裕哉も私のことを気になってくれていたらしく付き合い始めた時はかなりラブラブだった。大学内でお互いの友人達にたくさん祝福され、毎日のように冷やかされても嬉しかったし、もっと言ってくれと思うぐらいに幸せだった。
私達がまだラブラブだった頃は私が待ち合わせ場所に着く頃は裕哉がいつも先に着いていて私のことを待っていてくれていた。そして待ち合わせ場所で私を見つけた時の裕哉の照れくさそうな優しい笑顔がたまらなく愛おしかった。
しかし、最近はデートに誘ってもお仕事のことや先約があることを理由に断られてしまうことが増えた。せっかくのデートだと、気合を入れてファッションもヘアアレンジも可愛くして行っても、当日になってドタキャンされることもたまにあり、本当にデートができた時も裕哉が遅れてくることは当たり前になっていた。
待ちきれず、裕哉に電話をかけるものの、数コールで留守番電話になってしまった。仕方なくメッセージを送ってみる。
『今どこにいる?』
『私は今、渋谷駅のモアイ像前にいるけど』
『もしかして残業中??』
ポツ、ポツツ____。
モアイ像の前で、メッセージの画面に既読がつかないかじっと見ながら一人ポツンと待っていると雨が降ってきた。仕方なく近くのブックカフェに寄ってみた。
『近くのブックカフェで時間つぶしてるね。』
メッセージを送って返信を待つ間にアイスティーを注文する。すると今度は間もなく既読がついた。ドキッとしてスマホを強く握りしめながら祈るようにメッセージを待ちつつ、空いている席を探す。そして1席だけ空いていた窓際のせきに座る。どうか今日だけはドタキャンしないで。残業ならいくらでも待つから『どんなに遅れてでも行く』って言って。お願い___。
ポロロン♩
『待ち合わせ遅れてごめん。残業してる。トラブルあってバタバタしてて連絡できなかった。もうすぐ終わるとは思うけど。』
待ちながら一気に3分の2ほどアイスティーを飲んでしまったところでメッセージが届いた。電話はなかなか出ないのにメッセージの返信は早く届いて驚く。ドタキャンする気はなさそうでホッとする。残業ならいくらでも待てる。あ、裕哉は傘持っているかな。
『りょうかい。残業頑張って。ブックカフェで待っているから渋谷駅着く頃連絡して!』
『あ、雨さっきから降り始めたけど、傘持ってる?』
送信。すぐに既読がつく。そして秒で立て続けにメッセージが届く。
ポロロン♩ポロロン♩ポロロン♩
『あ、やべ。傘忘れた。』
『残業終わったらタクシー呼ぼうかなー。』
『残業、書類仕事もあるの忘れてた。2時間くらいかかるかも。今日どうする?』
2時間。現在21時。2時間も渋谷駅周辺で待っていたら渋谷駅からの終電に間に合わなくなりそうだ。どうしよう。今日のデートはなしにするという選択肢はない。裕哉にほんの数分でもいいから今すぐ会いに行って、終電を逃してしまったら裕哉の家に泊まらせてもらうか。もし終電に間に合いそうだったら急いで電車に乗って帰ればいい。よし、そうしよう。
とりあえず電話してみよう。
プルルル♩
発信音がスマホの画面から鳴り響く。だが何コール鳴ってもかけ直しても裕哉が電話に出る気配がない。そして留守番電話になってしまう。なんで電話に出てくれないんだろう。残業中だからかな。お仕事中だもんなあ。
そしてまたメッセージを送る。
『傘、私持っているから職場に迎えに行こうか?』
『終電間に合わなくなっちゃうからそっち行ってもいい?職場の前で待ち合わせに変えない?』
既読がなかなかつかないのでメッセージを待っている間に、待ちきれずおかわりのアイスティーを注文する。
裕哉はいつも早めにメッセージを返してくれるタイプだったので、今回も少し待てば長くて30分もしないうちに返信をくれるだろうと思っていると、40分経っても返信が来なかった。
現在の時刻は21時45分だ。渋谷駅からの終電まではまだ時間はあるが、どうせ待つならもう裕哉の職場の近くのカフェで待っている方が良い気がしてきた。
裕哉の職場の最寄り駅は桜新町駅だ。渋谷駅からは東急田園都市線で10分で行くことができる。
すぐに飲み物を返却口に置きに行き、挨拶をしてくれた店員にお辞儀をして足早にカフェを出て渋谷駅に向かう。
この時間帯はかなり駅が混雑していた。きっとみんな今から帰宅するのだろう。早く裕哉に会いに行きたいのに、改札を通過するまで20分ほどかかってしまった。私は人混みが大の苦手だ。知らない人と話すのも大の苦手だし、知らない人に囲まれるのは圧迫感を感じるし緊張してしまって息苦しく感じる。小さい頃はとにかく人が大好きで片っ端から話しかけまくるような子供だったのに、社会人になってからいろんな人間関係の歪さを体験して人が信じられなくなり、心を許した数少ない人以外とは話すことが大の苦手になってしまった。
桜新町駅に到着するとホームは2、3人しかいなくホッとしながら駅を降りた。現在22時25分だ。メッセージアプリは電車に乗っている間もずっと開きっぱなしだったが、未だに返信が来ていなかった。きっと裕哉は真面目な性格だから、残業中はスマホを見ていないんだ。裕哉の残業が終わるまでは桜新町駅のカフェで待つこととし、その前に裕哉の職場に傘を届けに行くことにした。雨は渋谷駅にいた時はにわか雨だったのが今は激しくなってきていた。きっと今頃困っているに違いない。
そう思いながら改札口に向かおうとすると向かい側の2番線のホームから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。見ると裕哉が同い年くらいの可愛らしい女の人と一緒に歩いていた。
隣にいる女の人だけじゃなく裕哉も楽しそうに笑っている。何が起きているか分からず呆然と2人を見つめてしまう。目を逸らせない。
思い返せば、裕哉のあんな幸せそうな笑顔、しばらく見ていなかった。いつも楽しかったのは私だけだった気がする。裕哉は私といて楽しくなかったのかな。少しも楽しくなかったのかな。
カンカンカンカン♩
その時踏切の遮断機の音が鳴り響いた。
「もう!裕哉君たらー!!」
そう笑ってあの人は裕哉の口にキスをした。
「え・・・」
突然の出来事すぎるあまり、思わず立ち上がる。きっとこれは厳格だと信じたくて目を凝らして見てしまう。でも幻覚なんかじゃなくて現実だと言うことが分かってしまう。あの人のことを裕哉が拒否しないショックと衝撃で、ガラスを割るように心が砕かれる音がした。
私の心が砕かれる音は電車が到着する音にかき消され、裕哉には届かず、その瞬間、私と裕哉の間には分厚い壁ができて、それは決してどんな手を使っても壊せそうにはなかった。電車から降りた数人が怪訝そうな顔で2人を見ても、2人は2人の世界に浸っており、その世界は決して誰にも壊せない幸せオーラのシルクでいっぱいに優しく包まれていた。
キスした口を一旦は離した2人は仲良さそうに幸せそうに電車に乗り、一度も私を見たりせず去っていった。2人が消えたホームにはまだ2人の影が残っているような気もして、さっきの2人のキスシーンが何度も1番線のホームで浮かび上がって見えた。私は座ることもできず、ただ立ち上がったまま1番線のホームの2人がいた場所を見つめ続けるしかできなかった。そのまま25分経ち、その間何度も電車が来たが、何度電車が来ても同じ場所をずっと見つめ続け1時間経って終電のアナウンスがホーム内でされその音でやっと力が抜けたように座り込んだ。
現在23時30分。終電の時間だ___。私はこんな時間まで何してるんだ。女として情けない気持ちと恥ずかしい気持ちと悔しさでいっぱいいっぱいになり、涙が溢れてくる。でも彼氏の浮気現場の目の前で泣くなんて、それこそ恥ずかしいことだと思い、歯を食いしばって涙を止める。
カンカンカンカン♩
また踏切の遮断機の音が鳴り響く。歯を強く食いしばって涙を止めても、勝手に涙が頬を伝ってきてしまった。恥ずかしい。なんでこんな場所で1人で泣かなきゃならないんだ。
電車が到着すると3人の乗客が降りてきた。泣いている顔を知らない人に見られたくなくて顔を伏せる。顔を伏せているとどんどん情けなさが増していき、今度は声を出しそうになる。
「うっうう・・」
声を必死に抑えていると、一瞬の間に最終電車のドアが閉まってしまった。
私は人生で初めて終電を逃してしまった___。
10分ほどベンチに座ってぼーっとしていると、駅員さんに声をかけられ追い出されるように改札を出た。
「とりあえず家に帰るか・・・」
裕哉はあの可愛らしい女の人とどこかへ去って行った。裕哉は私が待っていると思い込んでいる渋谷駅に向かうつもりであの電車に乗ったのか、それとも___。
考えたくない。きっと後者の方だ。デートはなしだと連絡する理由もない。
終電を逃してしまったので、家までタクシーを使って帰るしかない。家の最寄りは西大井駅だ。タクシーでここから西大井駅まで乗ると料金は5000円を超えてしまいそうだが仕方ない。夜にもかかわらずこの蒸し暑さの中歩いて帰るよりはマシだ。
タクシー乗り場に行くと深夜だからか、サラリーマン、OL、飲み屋帰りであろう酔っ払いの人達が行列を作っていた。こんなに並んでいたら30分から40分ほどは待ちそうだ。
暇つぶしに、しばらく投稿していなかったブログのアプリを開く。ブログのタイトルは《みやびのらぶるーむ》だ。我ながら恥ずかしいタイトルをつけてしまったという自覚はある。ブログの投稿内容は主に裕哉との恋バナだ。どこにデートに行って楽しかったとか、何を言われて嬉しかったとか、次はこんなデートがしたいとか、裕哉の好きなところについてだとか。
裕哉とラブラブだった時は、毎週欠かさずブログを更新していたが、裕哉と心の距離が離れて行っていることに気づいてからは、ブログに更新できるほどの出来事がなく、ブログの更新頻度が少なくなっていた。だから、今日が久しぶりのログインになってしまった。
もう、きっと、裕哉とは終わりだろう。そう諦めの気持ちが、刻一刻と時間が過ぎるにつれて大きくなっていく。でも別れたくない。浮気されたのに、私には裕哉以上のいい男なんて見つけられないと今も本気で思っている。私にとって裕哉は生きる理由だった。宝だった。結婚だって意識していた。でも、裕哉にとっての私はそうじゃなかった。裕哉ともしも別れてしまったら、絶対後悔するだろうと思うし、私は空っぽの抜け殻になってしまうだろう。
そんなことを考えていてようやく1人がタクシーに乗り込み、列が進んだ。列の進みが悪そうなので、暇つぶしに今の心境をブログに入力してみることにした。
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タイトル:浮気された哀れな私
彼氏に、浮気されました。
今日は雨が強いので、彼の職場に傘を届けに行こうとしたら、彼が可愛らしい女の人と仲良さげに歩いていました。
そして、2人はキスをしました。
彼との今日のキスの相手は私ではありませんでした。
はじめは、何が起きたのか分かりませんでした。でも、時間が経つにつれ、少しずつ、“私は浮気をされていた”という実感がわいてきました。
きっと、もう彼とは終わりです。
もちろん、まだ現実を受け入れられていないので、「別れたくない」と思っています。しかし、“あの光景”を見せられて、今までと同じように関係を続けられるほど、私はメンタルが強くありません。それに、私から別れ話を彼に告げられなくても、どのみち時間の問題で彼からフラれるでしょう。
ブログでは、彼との恋バナを綴っていたので、彼との関係が終わると同時に、このブログも終わりを告げると思います。
今まで、私、みやびのブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございました。さようなら。
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10分ほどで入力が終わり、投稿ボタンをタッチする。
“ブログを読んでくださった皆さん”と言っても、私のブログの読者は50人ほどしかいない。その50人というのも、全然投稿していない人もいるし、フォロバ目的の人を探して稼いだ読者だった。だから真の読者というのは5人ほどだ。
一旦ブログアプリを閉じ、お気に入りのスマホゲームを始める。海の生き物のパズルゲームだ。パズルをクリアすると、海が綺麗になり、海藻や岩、綺麗な装飾物を置けるようになる。
ゲームは何回でもやり直しがきく。ゲームをやり直す度にハートが1つずつ減っていくが、満タンで5つのハートがなくなっても、数分待てばハートがたまり、またゲームをやり直せる。それにアイテムを使えば、簡単にゲームをクリアできる。
私と裕哉の恋愛も、この海の生き物のパズルゲームみたいに何回でもやり直しができたらいいのに。ハートは5つもいらない。1つでいいからやり直したい。
でも、やり直すとしても私のどこを直せばいいんだろう。どこをどうやり直せばいいのか分からない。まあ恋愛なんてやり直せるわけがないんだけど。でも少しでも私の何かを変えれば、結果が変わる気がする。
ゲームをやっていたらあっという間に20分ほど時間が過ぎていて、列も自分の番まであと少しになっていた。そこで再びブログのアプリを開いて見る。
いいねは3つしかついていなかった。読者50人のうち、いいねが3つ・・・。私のブログの読者に追加してくれていれば、ブログ更新時には通知がくるようになっている。
別にいいねが欲しくてブログをやっていたわけではない。ただ知らしめたかったのだ。
私の彼氏は裕哉だ。
裕哉はこんなにかっこよくて優しくて私を大切にしてくれている。
私は裕哉といれてこんなに幸せなのだ。
と_________。
いいねがつくのを待つ間、自分のフォローしているリア充女子のブログを見ていく。
『今日は、わっくんに告白された記念日♡幸せいっぱいな日になりました!』
『奏君は家に帰るといつも服脱ぎ散らかしっぱなしで困ります。でもそんなだらしないところでさえ愛おしいのです♡』
『今日のデートは蓮音プロデュースでした♡いつも私がデートプラン考えていたから、嬉しすぎたああ。』
「・・・。」
私が“そっち側”にいた時もあったのにと思いながら、ブログを読み漁っていく。読めば読むほど惨めな気持ちになるのに読む手が止められない。『告白された記念日』『愛おしいところ』『デートをプロデュース』・・・。全部裕哉はくれていた。大切にしてくれていた。私たちは誰から見ても紛れもなく幸せだった。なのに___。
「お客様ー?乗りませんかー??」
ハッとして前を見ると、前には少しの空間が空いていてタクシーが到着していた。私が乗るタクシーだった。
「すみません・・」
慌てて乗車し、行き先を運転手に伝える。
「西大井までお願いします。」
「はい!かしこまりました!それでは出発しますね。」
運転手は私の2倍は生きているようなおじさんだったが、笑顔が爽やかだった。ネームプレートを見ると『野島』と書かれていた。野島さんは出発して早速気さくに話しかけてきた。
「いやあ、ひどい雨ですなあ。お嬢さんこんな雨の中仕事だったの?」
「あっ・・はい、仕事でした。」
「そうかあ!大変だったねー!風邪ひかないようにさ、もし寒かったら温度調整するから言ってねー。」
黙ってうなずく。
人と話すのは嫌いだ。ただ笑顔を貼り付けて、心の中で思っていることと正反対のことを平気で言ってきたりする。そして時に、相手が裏切っても損しない相手だと思ったら、平気で、平気で、牙を剥いて容赦ない言葉の刃を向けてくる。だから信用できない、信用しちゃいけない。だから私は、本当に心を許した人以外は、距離を置いて話さないようにしている。
でも、今日は、なんだか、寂しかった。本当に心を許して信頼していた裕哉に裏切られ、今はただ悲しさで怒りが湧いてこなかった。その悲しみをブログにぶつけても、見てくれる人は雀の涙ほどしかいなかった。その悲しさと虚しさが私を少し変えたようで、不思議と、全く知らない初対面の野島さんのコミュニケーションに応じていた。
「仕事は何やってるのー?」
「福祉です。いろんな方のお話を聞いて解決するお手伝いをさせていただいているというか・・・」
「へえ!カウンセラーみたいな感じ?凄いねー!!」
「いえ、そんな凄いもんじゃ・・・」
「いや、福祉でいろんな方のお役にたっているんでしょう?凄いよ、充分凄いことだよそりゃあ。」
「・・・ありがとうございます・・」
野島さんは少々話のテンポが早く強引なにおいがした。しかし、心が弱っていた今の私には、野島さんの話が、言ってくれた言葉が心に響いて、この雨のように冷たくなってしまった心をポカポカさせた。
そしてまた涙が溢れ出てきた。
「ぞっ・・ぞんなだいしたごとっ・・・ないです・・」
こんな客絶対めんどくさいだろうな。と思った瞬間、野島さんは箱ティッシュを差し出してくれた。
「これ、どうぞ使ってよ。」
「あ、ありがとう・・ございます・・・」
ブフウウウン!!
「ははっ!豪快な鼻かみだなあ!はははー!」
「ふふっ笑わないでくださいよ・・」
私が豪快に鼻をかむと、野島さんは笑った。
そして、私もつられて笑って、その後は野島さんの家族の話になった。
「上の娘がねえ、お嬢さんより少しばかり年下なんだけどね、もう推し活にハマりまくってねえ、困ってんだよー。」
「推し活ですか。流行ってますよね。何の推し活ですか?」
「ん?ええとね、男性アイドルって言ってたなあ。けっこう人気な子らしくてね、雑誌の表紙にもなってるらしいんだよ?」
「へええ、男性アイドル・・・」
「俺はさ、男性アイドルの推し活なんてやめとけって最初は猛反対したんだよ。推し活なんて、男に金貢ぐような勿体ないことすんじゃねえってね。男に依存すんなってね。」
こんな爽やかな笑顔を見せる野島さんでさえ、娘さんと大喧嘩するんだ。意外だなと思った。野島さんが娘さんと大喧嘩する様子を想像すると、なんか似合わなすぎて笑いそうになる。
「へえ、そうおっしゃるの、なんか意外です。」
「そうかい?で、上の娘と何回か大喧嘩したんだけどね、今はまあハマりすぎるのは困るけど、まあ推し活賛成してやってもいいかなって思ってんだよー。」
「え、何でですか?」
猛反対して何回も大喧嘩したのに、それでも推し活を賛成しても良いと思った理由はなんだろう。私は今まで好きなスポーツ選手がいたことはあったが、全くのにわかファンだったし、推し活と呼べるようなことはしたことがなかった。
「上の娘に言われたんだよ。推し活は、人生に色々あって寂しくなった時、自分をそこから救い上げてくれる人なんだって言われてね。だから無下に反対することはできなくなってね。」
『寂しくなった時、自分をそこから救い上げてくれる人』
裕哉がまさにそういう相手だった。裕哉は私の寂しさをまるごと受け止めてくれて、いわゆる“人生のいろいろ”から私を救い上げてくれていた。そんな裕哉に私はいつの間にか依存してしまっていたかもしれない。裕哉にとって、私の寂しさは重すぎたのかもしれない。
「誰かに依存していて、その人がいなくなった時、その寂しさはどうなるんですかね・・・」
思わず口にした言葉。野島さんが「え・・・」とこちらを振り向く。「あ、病んでる人だと思われたかな。」と考えた瞬間、野島さんは爽やかな笑顔でまた笑い飛ばした。
「そしたら、また新しい依存の相手を探せばいいさ!」
「え、また依存するんですか・・?」
意外な一言だった。“依存=やめといた方がいいこと”と思っていたし、野島さんがまさかそう言うとは思わなかった。依存する相手がいなくなって、また依存したら、依存にキリがなくなってしまうのではないか。
「限度が保たれているなら僕は依存アリだと思っているよ。誰だって何かには少なからず依存しているもんだと思うし、また見つけた依存する相手・物に自分が救われるなら、依存したっていいんだよ。”依存“っていつも悪い意味で使われるけど、いい意味も確かにあって、“頼ることができる”っていうことでもあると思うんだよね。だから限度が保たれるなら依存も悪くはない。」
誰かに何かに依存すること___。
頼ることができるっていうこと___。
その2つは今まで重ねて考えたことがなかった___。
野島さんの言葉が今の私にスッと降りてきて、私は、ただ寂しくて裕哉を頼りたかったんだと思えてくる。その裕哉という存在は唯一無二の存在ではなく、きっとこの世界のどこかに代わりになる存在がきっとある___。野島さんの言葉は私にそういう考えをくれた。
「あ、この辺りかな?西大井。」
「あ、はい!信号2つ先まで行って、角を曲がったらすぐにあるアパートまでお願いします!」
「はいよー!」
今日はなんだか疲れた。耐えられないほど悲しいこともあった。でも良い出会いもあった。きっと今日のことはこれからの私をつくってくれる。今日の出来事にありがとう。
「ありがとうございました!」
タクシーを降りてアパートの階段を登る。
いつもこの階段を登るのが嫌いだった。登るのは好きじゃない。きついし、疲れるし、足痛くなるし、こんな安いアパートなら絶対無理だろうが、エレベーターがあればいいのにって思ってしまう日々だった。でも今は前向きな気持ちで登れている。
やっと自分の部屋の階に着く。そして、端っこの自分の部屋の鍵を回し開けたところで、スマホの着信音が鳴った。画面を見ると、電話は裕哉からだった。
「もしもし?」
「俺俺。今日ごめんな。残業が思ったより時間かかってさそっち行けそうになかった。」
「うん。」
裕哉。知っているよ。残業って言い訳つけて女の人と一緒にいたの。そして何したのかも・・・。
「連絡遅れてわりい。終電もうないよな?今どこにいるの?」
「今、家に着いたとこ。」
「そっか。・・・ほんと悪いな。今日の埋め合わせは今度するから。」
「いいよ、もう・・・」
「えっ・・?」
埋め合わせって何よ。デートってお互いが会いたくてするもんじゃないの?埋め合わせでするデートなんて嬉しくないし、そんなの、デートじゃない。いらない、こんなの。
「うちら別れよっかあ。もう。」
本当は泣きじゃくって怒って責め立てて、2度とこんなことしないって誓わせたい。でも、もうこんな男に依存したって、私はきっと幸せになれない。私を幸せにして頼らせてくれる相手はきっとこの先も現れる___。
今がきっと、ずっと私が依存してきた裕哉から卒業する時だ___。
「は、どうしたんだよ、急に。」
「急だよね、たしかに。でも___急にそう思ったの。」
「・・・分かった。」
「うん。じゃ。今までありがとう。」
全く引き留めてくれないんだね。大学生の頃から社会人4年目になるまで長く付き合った仲なのに、簡単にさよならしちゃった。少しぐらい引き留めてくれるかもって思ったんだよ。理由くらい聞いてくれてもよかったんじゃないの。
溢れ出てくる裕哉への想いはあるが、きっとこれで良かった。少しはそう思えている自分がいる。
今はまだ裕哉への未練は残っているが、きっといつかこの恋を忘れさせてくれる相手が現れてくれることを夢に見て___。
裕哉は私を裏切った。あのキスをしていた女の人は悔しいぐらいに裕哉とお似合いなくらい可愛かった。いいんだ。これでいい___。
結果的には裏切られたけれど、裕哉とは幸せなことがたくさんあった。告白してOKをもらえた日。初めてデートした日。半年記念日を覚えてくれて嬉しかったこと。就活でストレスが溜まっていた時、息抜きにアイドルの野外ライブに連れて行ってくれたこと。新卒で入った会社でなかなか環境に慣れずにいた時励ましてくれたこと。仕事で大きなミスをしてしまった時サプライズでプラネタリウムデートに連れて行ってくれたこと。他にも数えきれないほど幸せをたくさんくれた。
だから、もういい___。もう___。
この恋の終わりには綺麗な果実をお送りします。

