東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「ああ! 来たきたっ! 良かった! 待ってたよ、わさびちゃん」
やっぱり樋浦弁護士は外で待っていた。
「樋浦弁護士、これ、ありがとうございました」
わさびは借りていたICカードをさっさと返却する。もう十分ピッとして楽しんだからもういらない。
「帰るときも必要だろうから、これはあげるよ」
「知らない人から金目の物を貰うと、お爺に叱られます」
「ははは……僕って知らない人なんだ……」
樋浦弁護士はしょんぼりしながら、わさびを事務所の中に案内してくれた。
お世辞にも立派とはいえない事務所だ。
お爺の仕事しかないにしても、お爺は沢山お金を渡しているはずなのに。
「驚いた? ごめんね古くて───座って座って」
学校の用務員室に有りそうな、丸い縦長の灯油ストーブの上には、やかんが置かれている。
ところどころひび割れた、これまた古い革のソファーに腰を下ろす。
「はい、ココアでいいかな?」
「はい、ココアはオレンジジュースと同じくらい好きです」
部屋の温度がそんなに高くないせいか、渡されたココアからは湯気がモクモクしている。
「やっぱり! そうじゃないかと思ったんだ」
わさびは両手でカップを持ち、猫舌なのでフーフーしながらちびちび飲む。
「はい、コレ。わさびちゃん用のスマホ」
目の前に差し出されたのは、一台のスマホ。
「……いりません」
「うーん、そう言わないで持っててくれないかな。昨日みたいな時に、夏目くんに頼めない時があると困るだろう?」
「……」
確かに、言っている事は理解できる。
「では、緊急連絡用にお借りします」
「使い方はわかる? 僕の連絡先は入れておいたよ」
「学校でタブレットを使うので大丈夫そうです」
スマホの画面に触れ、アドレス帳を確認する。
登録されているのは一人だけだった。
“樋浦 圭介”と表示されている。先生の氏名だ。
「何かあればいつでも連絡してね、寂しい時なんかも話し相手になるよ。メッセージアプリも入れておいたから、使ってね」
「ありがとうございます。でもきっと、わさびからは緊急時にしか連絡はしません。なので、その時は絶対に出てください」
昨日、お爺が危ない状態になった時、先生がすぐに駆けつけてくれて、ほんの少しホッとした。
「わかった。風呂に入ってて泡まみれでも必ず出るよ」
「そうしてください」
先生の見た目は、東雲 紀糸と同じくらいに見える。きっと、弁護士としては経験も浅く若いだろうに、すでに年寄りみたいな空気をまとう人だ。
「今日の用事は以上でしょうか? わさびは帰ってもいいですか?」
今日の朝の時点では、お爺はまだ目覚めていなかった。出来れば側にいたい。
「あ、待って! せっかく来てくれたんだから、もう少しおしゃべりに付き合ってよ」
「……」
この男も面倒くさい事を言う。
「わさびちゃんは僕が、神楽家のご当主から何を頼まれているか、知らないでしょ?」
「はい、知りません。わさびは知る必要もありませんし、知りたくもありません」
とはいえ、大体は予想がつく。相続の関係だろう。
「はははっ、さすがはわさびちゃんだなぁ……ご当主の話していたとおりだね」
お爺はわさびの事をよくわかってくれている。
「縁起でもないけど、僕はご当主亡き後、わさびちゃんを、任されてるんだ」
「……任されなくて結構です。高校さえ卒業できたら、あとは放っておいてください」
お爺はわさびの卒業証書を見るまで死なないと言っていた。約束した。
「任されてると言っても、アレだよ? ほら、今のご当主みたいに神楽家からのシェルターになるだけ」
「そうですか、では緊急時には是非頼りにさせて頂きます───もう、帰ってもいいですか?」
こんな話しだけなら、早くお爺の所に帰りたい。
「……不安だよね───もしも高校卒業前にご当主に何かあれば、僕が必ずわさびちゃんを卒業させるから。だから安心していいよ、って伝えたかったんだ。ご当主には秘密ね。勝手に殺すなって僕も叱られちゃうから」
先生は、はははっと笑い、車で病院まで送り届けてくれた。
急いで病室に戻ると、お爺はいつものように、“おかえり、わさび”と言って痩せた笑顔で迎えてくれた。