東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「くそっ! やっとくたばると思ったのに!」
「本当よねぇ……もっと怒らせて興奮させればよかったかしら」
「ねぇ、私もう帰ってもいーい? これから奏さんとデートなんだけど」
───お爺は一命をとりとめた。
ホッとして、喜んでいるのはわさびだけ。でも、絶対にそんな素振りはこの人達の前で見せたらいけない。
でも結局、誰一人として、お爺が目覚めるまで側にいようとはしなかった。
病室に残っているのはわさびと樋浦弁護士の二人だけ。
夏目は病室の外で待機している。
「……お爺……死んだら駄目……わさびを一人にしたら駄目……」
よぼよぼの手には点滴の針が刺され、骨と皮のような体には心電図などの機材がいくつも貼り付けられている。呼吸器に繋がれ、やっと息をしている状態のお爺。
「そっか……もう疲れたよね……ごめんね、お爺。わさび、もう少しで高校卒業するからね」
『高校だけは絶対に卒業すること』
お爺とわさびに残された、最後の約束だ。
その約束をした時、お爺は『せめて高校を卒業するまでは、お前の面倒を見させてくれ』と、しょんぼりしながら、そう付け足した事を思い出す。
「わさびちゃん、スマホ持ってないんだっけ?」
お爺の手を握りながらベッドに突っ伏すわさびに、樋浦弁護士が声をかけてきた。
「はい、わさびは持っていません」
お爺は高校入学の際に、持たせようとしてくれていたが、煩わしいのでいらないと断ったのだ。
「うーん……明日、学校が終わったら、僕の事務所に来れるかな? 電車に乗るお金は持ってる?」
「……」
お金は持っていない。いつも歩きか、お爺が手配してくれた車に乗っているから。でも、電車には乗れると思う。
「これ、僕が昔使ってたやつだけど、最寄り駅間くらいの残高は残ってると思うから、これを使って何とか辿り着いてね。もし迷ったら、タクシー使っていいよ。着いた時に僕が払うから」
「わかりました」
わさびは樋浦弁護士から、ぺんぎんのイラストの書かれたICカードを受け取った。
──────
翌日の放課後、わさびは校門を出て、病院ではなく駅の方へ歩いて向かった。
「おい、今日はどうしてこっちなんだ? あっちは駅しかないぞ」
「……東雲 紀糸はどうして今日もここにいるのですか」
昨日に続き、一体何だというのか。女子高生をつけ回す不審者として通報されてしまえばいいのに。
「昨日、話をしに来たのに、しないままで終わったからだ」
「そうですか、わさびはこれから電車に乗ります。さようなら」
面倒くさい。
ペコリと頭を下げて車の横を通り過ぎる。
「待て、電車でどこへ行くんだ? 送るぞ」
「結構です。わさびには、これがあります」
樋浦弁護士に渡されたICカードを、これが目に入らんか! とばかりに、印籠のように東雲 紀糸の目の前にかざしてやった。
「そうか、いいから乗れ」
スルーとは小癪な。
「嫌です、ピッとして改札を通りたいので」
「……それはまた今度すればいいだろ、早く乗れ。女子高生に話しかけてる不審者だと思われるだろ」
不審者で間違いありませんけど。
しかし今日はこの男の相手をしている暇はない。
わさびは樋浦弁護士に呼ばれている。きっとあの先生のことだから、わさびが無事にたどり着けるか心配して、この寒空の下、外で待っているような気がする。
「わさびはには大事な用事があります。それでは、さようなら」
足早にその場から逃げた。
「あ、おいっ!」
あの男が乗る車の進行方向は駅とは真逆だ。Uターンできるような場所はずいぶん先まで行かないとない。
そう思ったのに……
「なぜ、わさびについてくるのでしょうか」
男は車を降り、改札までついてきた。
わさびの速足は、男にとってただの大股で歩く程度だったようだ。
脚の長さを自慢されたようで気に入らない。
「スマホを出せ。今度から事前に連絡してからくるから」
「スマホは持っていません」
「……まさか、ガラケーか?」
「携帯電話の部類を持っていません」
おばけでも見るような目で見られた。そんなにおかしい事だろうか。
「そうか、ならまた明日来る。明日は予定はないな?」
「わかりません、わさびは急いでいます。失礼します」
学校のパソコンで先生の事務所までの行き方は調べてある。
嬉々としてピッと改札を通り、電車に乗った。