東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「失礼、いいかな?」
「はい? ──えっもしかして……東雲さん、ですか?」
九条は俺の顔を知っていたようだ。やるじゃないか、高校生のくせに。
「わさび、どういう状況だこれは」
九条の弟の事はひとまず無視し、俺はわさびに話しかけた。
「……どういう状況かと聞かれれば、わさびは神楽 夢香に九条 蓮とのお見合いをさせられている状況です」
実に簡潔でよろしい。
「そうか……九条くん、神楽側に何か手違いがあったようだ。悪いがわさびは、俺の婚約者なんだ」
この俺が“手違い”を口にする日がくるとは……
「えっ?! でも兄さん達が……」
あの兄と姉が何を思ってこの二人をこの場で合せたのかなど興味は無いが、九条 蓮はわさびとの縁談に乗り気だったようだ。
でも残念だが、900億を用意できそうにないお前に、出番はない。
「わさび、行くぞ」
わさびに確認もせず、俺はわさびを離脱させようとした。相変わらず、彼女の眼には何も映っていない。感情の無い眼をしている。
「……九条 蓮、ここのオレンジジュースはおいしいです。わさびが頼んだお代わりが来たら、飲み干してから帰ってください」
すっと席を立ったわさびが、何を言うかと思えば、追加でオーダーしたオレンジジュースの心配だった。
「……あ、ああ……飲み干さなきゃ駄目なのか?」
九条の弟は、何の話だ、とぽかんとしながらも、わさびの言葉に真面目に対応している。
なるほど、わさびが九条の弟を評価しているのは、こういう所なのかもしれない。
「はい、お代わりしたら残したらいけません、とお爺が言っていました。では、さようなら」
丁寧に九条の弟に頭を下げた後、俺の後ろを追いかけてくるわさびの姿を確認し、ラウンジを出た。
──────
「今日も部屋をとってあるのか?」
皮肉を込めたつもりはないが、この状況ではそう捉えられてしまうかもしれない。
「わさびはただ、着物を着せられて、ラウンジに連れて来られただけです。前は、客室に連れて来られて、着物を着せられて、鍵を渡されて、ラウンジに連れて来られただけです」
“ここ”ばかりでわかりにくいが、要するに今回は部屋はとっていないという事なのかもしれない。
「今日は車に乗ってくれるな? そんな格好じゃ歩いても帰れないだろ」
「……」
わさびは見せかけだけの似合ってもいない着物を着ているだけで、手荷物も何も持っていない。つまり、俺の渡したスマホも持っていないのだろう。
「そういえば、紀糸はなぜここにいるのですか」
突然の名前の呼び捨てに、なぜか心臓がはねた。
そうか、俺が自分でフルネームで呼ぶなと言ったのだった。ちゃんと守っているのか。それならばもしかして……
「お前、スマホは?」
「ここにあります」
そう言って、わさびは振袖の帯の隙間からそれを取り出した。きちんと約束は守っている、そう言わんばかりに堂々と。
「っ……」
その瞬間、俺の中で何かが動いた。
───……可愛い奴だな。
「そうか、ちゃんと持っていたのか。でも、俺の電話に出なかっただろ」
「……」
出れる状況ではなかった事はすでにわかっている。少し意地悪のつもりだったのだが、わさびは言った。
「わかりました。次からはシャンプーで泡まみれでも出ることにします」
別にそこまでしろとは思っていない。しかし、その言葉がなぜか嬉しかった。
いつぶりに感じたかもわからない“嬉”という感情に、俺は少し戸惑いながらも、こう答えていた。
「そうしてくれ」
その言葉を口にした自分が、どんな表情をしていたかはわからない。
だが少なくとも、眉間にしわはなかったはずだ。もしかすると、口角が上がっていたかもしれない。目尻が下がっていたかもしれない。
「……そういえば、腹が減ったな。わさび、昼は食べたか?」
「いいえ、朝ごはんを食べてから何も食べていません」
「そうか、俺も会議続きで昼がまだなんだ、このままどこか食いに行くか」
「行きません」
この空気で、なぜそうなる。本当に、こいつはブレないな。
「おい、もう一つ約束したよな。俺の婚約者だという自覚はどこへ行った」
この女を相手にしていると、どこまでも自分が情けない男に思えてくる。
大人げないとは思いつつも、彼女を引き留める方法はこれしかない。
「帯が苦しくて、今は何も食べられません」
「……それが、俺との食事を断った理由か?」
「はい。お腹は空いていますが、苦しいです。着物を脱いだら食べます」
俺の顔は今、だらしなく緩んでいるに違いない。
「そうか」
俺はそのままホテル内の適当な店に入り、わさびを着替えさせた後、初めて二人で食事に出かけた。