東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「今日は紀糸のベッドで一緒に寝ます」
「……は?」
卒業式の日のその夜、寝室で仕事をしていたら、夜中に突然枕を抱えたわさびが入ってきて、そんな事を言った。
「駄目ですか」
「いや……駄目ではないが……」
「お爺はたまに一緒に寝てくれました」
そうか、俺はお爺の代わりか……卒業して、お爺を思い出して寂しくなったのだろうか。
「そうか……おいで。俺も寝ようと思ってた所だ」
つけていたブルーライトカットの眼鏡を外し、机に置く。仕事はまだ片付いてはいないが、明日にしよう。
わさびは無言で俺のベッドに自分の枕を起き、そのまま上掛けの中に潜り込み、寝転んだ。
俺も一緒にわさびの隣で横になる。
「……紀糸は眼鏡をしていました」
「ブルーライトカット用だ」
「……そうですか、おやすみなさい」
「おやすみ」
翌朝、珍しく早く起きたわさびは、仕事へ向かう俺を見送ってくれた。
その時点で、何か不安を感じてはいたが、俺はいつもと同じように仕事をした。
───そして夜、少し早めにマンションに戻ると、わさびはトランクケースと共にいなくなっていた。
──────
それから半年後───
神楽は神楽 義徳が持つ三分の一を残し、三分の二以上を超える株が東雲の保有となった。
完全支配買収が完了する。
わさびがいなくなり、東雲は、理由を伏せて、神楽の娘との婚約を解消すると公表した。
それにより、神楽の株価が底値になったこともあり、用意していた950億と、わさびのおかげで得たシノノメ・ホースの30億を足したことで、買収は容易だった。
わさびが俺のマンションに置いて行った、お爺から彼女への30億には一切手を付けていない。
買収後はとにかく忙しかった。
昔からあるお爺の息のかかった法人はまともだったが、神楽 義徳の管理していた法人の経営状況はずさんとしか言いようがなく、蓋を開けたはいいが、閉じたくなるほどに呆れてしまった。
そしてあっという間に月日は流れ、間もなく買収から2年が経とうとしている───
「梅雨があけたからか、最近やけに暑いよなぁ……温暖化かぁ……なぁ、本社を涼しい所に移さないか?」
「……馬鹿言え、一人で避暑にでも行ってろ」
エアコンの効いた室内とエアコンの効いた車内にしかいない生活の俺と、対して変わらないはずの男が何を言ってるのか。
「えー、じゃぁ、俺だけ北海道に事務所作って移住しようかな」
「……晴人、近年は北海道も暑いみたいだぞ」
北海道か……最後に行ったのはいつだったか。
そういえば、シノノメ・ホースは北海道に行ったのだったか。
『では、引退後のシノノメ・ホースが快適に過ごせるようにしてあげてください』
彼女がそう言ったおかげで、アイツは北海道の大地でのびのび過ごしているはずだ。
「……北海道か、いいかもな、久しぶりに行ってみるか」
「お? どうした? ……お前、また昔みたいに土日祝日もないみたいな仕事の仕方してるだろ。俺達ももう30になるんだから、身体も衰えてきてだな……」
マンションに一人でいると、どうしてもわさびを思い出してしまう。ハウスキーパーのオッサンも、彼女を思い出しすので、悪いがチェンジしてもらった。
無駄な感傷に浸る時間は無駄。だから俺は仕事をしているだけだ。
「俺はお前と違ってジムで鍛えてるからな、身体年齢は20歳だぞ」
「嘘つけ」
「悪い、事実だ」
「……」
晴人に言われたから、と言うわけではないが、その週末、俺はシノノメ・ホースに会いに北海道へと飛んだ。
「暑いじゃないか……まぁ、湿度が低いだけ若干東京よりはマシか……」
そんな事を考えながら、俺は牧場に向けてタクシーに乗った。
「お客さん、馬主さんですか?」
「ああ、そうだ」
「今向かってる施設には、あの奇跡のラストランを見せた“ゼロ・グラビティ”がいるんですよ」
「……シノノメ・ホースだろ」
「ははは! その名前が気に入らなくて、ずっと負け続きだったらしいじゃないですか! よく考えたら、酷い名前ですよね、馬に馬だなんて!」
「……」
そんなに駄目だったのか、俺がつけた名前は。
悪気はないとわかる運転手に対して、怒りは起きないが、何故“ゼロ・グラビティ”の名がこんな北海道にまで広まっているのか。
「はい、到着だ! 気をつけて!」
「どうも」
タクシーを降り、見渡す限りに広がる青々と生い茂る草原を目の当たりにし、北海道だな、と思った。