東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ

 
「今日はお早いお帰りですね」

 俺のマンションのキッチンで、エプロン姿のオッサンが、夕食を作っていた。
 ハウスキーパーはこんな顔だったのか。
 よく覚えていなかったが、わさびが料理などを気に入っているオッサンなので続けてもらっている。

「わさびは?」

「お部屋にいらっしゃいますよ」

 その言葉を聞くなり、俺はわさびの部屋をノックしてすぐ開けた。

「───わさび、入るぞ。明日の卒業式は俺も行くから……な……」

 目に入ってきた光景に、思わず言葉を失いかけた。
 ドアを開けた先にいたわさびは、トランクケースを床に広げ、荷物を詰めていたのだ。

「……え、なぜですか? 卒業式は一人で問題ありません」

 いつもと同じ変わらないトーンで返ってくるその言葉に、イラッとする。

「……お前、卒業旅行にでも行くのか?」

「旅行? 行きません。予定通り、わさびは卒業式が終わったら、マリッジブルーで失踪します。紀糸、神楽の買収、よろしくお願いします」

 何を言ってるんだ、とばかりに抑揚ないトーンで返された。

「卒業式が終わったら……すぐ、か?」

 わさびの机の上に視線を向ければ、2台のスマホや通帳、印鑑がきちんと並べられている。
 トランクケースの中に詰めているのは、病院から持ってきた荷物だけのように見える。俺が買ってやったものは一切見当たらない。

 なんだ、急に動悸が……心臓が痛い。

「早くしないと、九条 奏が夢香は阿呆(あほぅ)だと気付いてしまいます。わさびはまた九条 蓮とお見合いするのはごめんです」

「それは、そうだが……何もこんなすぐに行く必要は……あ、行き先は教えて行けよ。あと、俺が渡したスマホも忘れるなよ」

 ───それなら、いつでも会いに行けるからな、多少は面倒だが、問題はない。

「行き先を教えたら、それは失踪ではありません。スマホも必要ありません」

「駄目だ」

 ───駄目だ。

「駄目ではありません、わさびは神楽の瑕疵にならないといけません。東雲に責められた神楽が、わさびを探して差し出すような面倒な事はしないと思いますが、念の為、わさびは隠れます」

 ───駄目だ!

「駄目だ!」

「何故ですか、話しが違います」

 ───何も違うくない。

「神楽は東雲が買収する。結果がそれなら問題ないだろ。わさび、別にお前は神楽の瑕疵になる必要はない。逃げも隠れもする必要はない」

 ───お前は瑕疵なんかじゃない、ちゃんとした俺の婚約者だ。

「……瑕疵を理由に揺さぶらないと、神楽は売りません。どんどん負債が膨らんでしまいます。交渉が長引けば長引くほど、東雲にとっても不利益です」

 ───そんな事はわかっている。だが、それくらい、俺が何とかする。

「子供はそんな事心配しなくていい。大人に任せておけ」

「……わさびは子供じゃありません」

 ───なんなんだ、何故こんなにもイライラするんだ。

「……大丈夫です。卒業式が終わったらわさびはそのままいなくなります。東雲 紀糸(・・・・・)はもうイライラしません」

「何故そうなる! お前、俺の話しを聞いていたか!?」

 ───っクソ、イライラしてると思わせてしまったか……いや、まさか俺の考えてる事……

「……」

 わさびはそれ以上、俺と目を合わせようとしなかった。






 そして翌日、わさびは卒業した。

 本来なら生徒会長がする代表挨拶を、3年間ずっと成績優秀者だったとして、わさびが読み上げていた。

 お爺は見ていただろうか。

 ───貴方の大事な山葵は、立派に高校を卒業しましたよ。


 卒業式が終わり、わさびは俺の前に卒業証書を広げ、見よ、とばかりに自慢した。

 しかしその直後、わさびは空を見上げた後、どこかへ走り出した。
 慌てて追いかければ、わさびは卒業証書を校舎の裏にある焼却炉に投げ入れたではないか。

 上を見れば煙突から細い煙が上っている。急ぎ蓋を開けるもすでに燃え始めていた。

「おい! お前、何してるんだ!」

「お爺に見せます」

「燃やしたら見せれないだろ! 線香じゃあるまいし!」

「お爺みたいに、煙になってお空に昇っていきます」

「そんなわけ───っ」

 何を言っているんだ、こいつは……

 ───ああ、でもこれがわさびか。

「……まぁ、お前がそれで気が済むならいいが……」

 こんな所でわさびを叱っても意味はない。
 卒業証書はわさびのものなのだから、どうしようがわさびの自由だ。



「お祝いに食事して帰ろう、何が食べたい?」

「わさびはお寿司が食べたいです。お爺はいつも、特別な日にお寿司を食べさせてくれました」

「寿司か、いいな」

 
 
 わさびは寿司も100貫程その腹に綺麗に収めた。
 
「相変わらずいい食べっぷりだな」
 
最後(・・)なので、食べ納めです。美味しかったです。ごちそうさまでした」
 
 ───最後?

「別に寿司くらい、いつでも連れてきてやるぞ」

「次は、わさびが増やしたお金で食べます」

 胸騒ぎがしてならない。こんな感情は初めてだ。
 仕事でどんなに大きく博打のような決定を下そうが、こんな気分にはならなかった。

「……おい、わさび───っ」

「行きましょう」

 わさびは席を立った。


 
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