東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「先ほどは失礼しました。予定の時間よりおしていたので、オーナーはシノノメ・ホースを心配して先に……馬は繊細ですからね、決して東雲さん達を蔑ろにしたわけではなくてですね……」
「樋浦弁護士はあれからずっとこちらに?」
オーナーと呼んではいるが、わさびと近しい関係を匂わせる樋浦弁護士の言葉と態度がなんだか気に入らない。
「もう、“弁護士”は付けていただかなくて結構ですよ。───ええ。神楽家の相続が終わって、なんとなく、いるかなぁ? っと思ってこちらに来てみたら、馬房で寝ているオーナーに出くわしまして……それからなんやかんやとずっとこちらにいます」
「馬房で……寝ていた、だと?」
まさかわさびは、金に困って住む場所もなかったのだろうか。
「はい。馬の側は落ち着くといって……僕も初めは驚きましたが、慣れましたね。今でもたまに馬房で眠ってしまう事があるので、スタッフ総出で探し回ることがあります」
そう言う事か、わさびらしいと言えばわさびらしいと言えるが、臭くはないのだろうか。
「オーナーも樋浦さんも、今はどちらにお住まいなのですか? 日高の中心街ですか?」
家を購入する参考にしよう。どうせなら、わさびの近くがいいに決まっている。
「いいえ、僕とオーナーはここの敷地内に建てた社宅に住んでます。社員寮と一緒に完成したばかりの新築で、すごく快適に過ごさせてもらってます」
予想外の言葉に、がっかりする。ここの敷地内とは、想定外だ。
「社宅は何棟もあるのですか?」
空きがあるのなら、俺も住みたい。駄目だろうか。
「社宅はひと棟だけですよ」
「……? では、樋浦さんはどちらに?」
「僕はオーナーと同じ社宅に住んでます。広いので」
どういうことだ。
いくら広いからとはいえ、一つ屋根の下に成人した男女が一緒に住むなど、そういう関係だという事だろ。
「オーナーは、生活能力がゼロに等しくてですね……僕が家事をしないと、大変なことになるんです。ハウスキーパー代わりで、家賃ただです」
「えー、オーナーさんいいなぁ、お兄さんみたいな優しそうなイケメンにお世話してもらいながら一緒に住めるなんて。ね、紀糸さん」
確かに、わさびが料理や家事をしているところを見たことがない。だとしても……納得がいかない。
「東雲さんこそ、そちらの綺麗な女性とはどういったご関係ですか?」
「沙也加は、紀糸さんのお見合い相手です。婚約者になれたらいいんですけど、お兄さんも応援してくださぁい」
「ははは……お見合い相手と一緒に……よりによってこちらに……そうでしたか、はあ、そうですか……」
樋浦氏はそれ以上しゃべらなくなった。
と、その時───
「嘘だろっ! もうか!」
樋浦氏が突然砕けた言葉で叫んだかと思えば、急に車をUターンさせた。
「すみません。今、シノノメ・ホースに騎乗したオーナーとすれ違いました。追いかけます」
───わさびがシノノメ・ホースに乗って走っているのか!
ずっと見たかったその光景を早く目にしようと、俺も窓を開けて外を見た。冷えた車内に熱風が入りこんでくる。
艶やかなダークブラウンの馬体が、太陽の下で輝いている。そして、その馬に跨る女性は長い髪をなびかせ、美しいフォームで、風を切るように駆けていた。
「……綺麗だ───」
「はい、確かにオーナーのフォームは綺麗ですが、いくら何でも飛ばしすぎです! 35キロは出てますよ!」
あっという間にノーザンへと戻ってきてしまった。
シノノメ・ホースに騎乗したままのわさびに、声をかけようとしたが、彼女はまたも俺を無視するようにしてさっさと行ってしまう。
なんだ、いくら何でも冷たすぎないだろうか。一週間ぶりに会えたと言うのに……
その後、わさびが俺の前に姿を現すことはなかった。
最後に、樋浦氏の案内で厩舎内のシノノメ・ホースの馬房に行くと、そこにわさびの姿があった。
彼女はシノノメ・ホースと見つめ合い、楽しそうに会話をしているように見える。
俺は、自分の馬に嫉妬しそうになった。
「ご案内はこちらで最後になります。中に入って見られますか? シノノメ・ホースを撫でていかれては?」
「やったぁー、沙也加、こんなに近くで馬見るの初めてぇ!」
この女は、どこまで付いてくるつもりなんだ。煩わしいったらありゃしない。
「申し訳ございません、馬は大変繊細なので、転居したばかりのシノノメ・ホースの状況を考慮して、本日の馬房への立ち入りは東雲さんのみとさせていただきます。お嬢さんは、僕とカフェへ行きましょう。ジェラートもありますよ」
「えー、ま、いっか。紀糸さん、カフェで待ってますね!」
樋浦氏の機転に今ほど感謝したことはない。
いや……何度かあるな。
今なら、馬はいるが、わさびと二人きりだ。
俺は中の二人を驚かせないように、静かに馬房の中へ入った。