東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「わさび」
「……」
声をかけても、わさびはこちらを向いてくれない。なんだ、やはり今日は機嫌が悪いのだろうか。
「乗馬姿、すごく綺麗だった……見惚れたよ」
「そうですか」
そっけない返事、続かない会話と、合わない目線。
「何かあったのか? 機嫌が悪いみたいだな」
「わさびの機嫌は悪くないです」
無理がある。誰がどう見ても機嫌が悪い。むしろ、俺に対して何か不満があるようにしか見えない。
「わさび、今日からシノノメ・ホースを頼んだぞ」
「もちろんです、シノノメ・ホースはデロデロに甘やかしますので、ご心配なく」
羨ましいぞ、シノノメ・ホース……
「その……お前、明日誕生日だろ? 今夜時間あるか?」
「……なぜですか」
「19歳も20歳も祝ってやれなかったから、祝いたいんだ。できれば二人で」
「……」
「……」
沈黙が続く。やはり嫌なのかもしれない。
「……あの人は誰ですか、なぜ一緒に来たのですか」
わさびとようやく目が合った。
相変わらずの吸い込まれそうな仄暗い大きな瞳が俺を見つめて離さない。
「あの人?」
「自分で自分のことを沙也加と呼んでいた人です」
わさびも、自分で自分のことをわさびと言っている気がするが、何か気に入らないのだろうか。
「あれは……話すと長くなるから、今夜大丈夫そうならその時に説明するよ」
この状況で見合い相手だなんて言えば、話がややこしくなるに決まっている。
「……見合い相手?」
「え? 俺、今そんなこと言ったか?」
いいや、絶対に口にはしていない。やはりわさびは俺の考えていることがわかるのか……
「東雲 紀糸は……見合いをしたのですか? あの人と結婚するんですか? あの人とキスするんですか? 子供を作るんですか?」
突然早口になる彼女に、その言葉の意味も含めて何か勘違いされているようで、俺は焦りを感じた。
「おい、わさび、どうした……俺は───っ」
「嫌ですっ!」
わさびは突然、シノノメ・ホースの顔にしがみ付き、叫んだ。
「嫌ですっ! 東雲 紀糸はあの人と結婚したら駄目です!」
わさびは何故叫んだのだろうか……そして、何故今、怒っているんだ。
まさか、俺が宝城の娘と一緒に来たから、今日はずっと機嫌が悪かったのだろうか。
「……どう、して駄目なんだ……?」
俺はわずかな期待を込めて尋ねた。
「わさびの好きは、恋愛の好きです。わさびは紀糸が大好きです! 紀糸はわさびが好きですか? 恋愛の好きですか?」
「……お前、何言って……」
何が起こっているのかわからなかった。
今、あまりに自分に都合の良すぎる言葉が聞こえて来たせいで、喜びのあまり脳内の処理が追い付かない。
「好きじゃないのに、大人のキスをしたのですか? 身体が目当てだったのですか?」
その言葉に、思わず吹き出しそうになった。
なぜ彼女はいつも、誰かに聞かれたら誤解を招くような言い回しをするのか。
「わさび、こんな……こんな場所で言うつもりじゃなかったんだが……」
「こんな場所とはなんですか、シノノメ・ホースに失礼です」
「……悪い……───わさび、俺の目を見ろ。好きなだけ覗け、どうせお前の事しか考えてない」
俺はわさびの両頬を挟み、シノノメ・ホースから引きはがす。
「別に……目を見なくてもわかります」
「そうなのか? てっきり、目を合わせると、相手の考えていることがわかるんだと思っていた」
「……紀糸も気味が悪いですか? お爺以外の人はみんな、わさびを気味悪がりました」
俺は彼女の目を覗き込み、首を横に振った。
「言っただろ、俺は頭の中を覗かれて困るような生き方はしていない。東雲の名に恥じるような、自分に恥じるようなことも何もない」
「わさびの事しか考えていないのにですか?」
「そうだ───俺の頭の中は最近、わさびに会いたい、声が聴きたい、わさびに触れたい、キスしたい、抱きたい、それだけだ」
「煩悩だらけです」
「駄目か?」
「駄目ではありません、面白いです」
なんだろう、雰囲気は甘いのだが、どんどん脱線していく気がする。
「わさび……好きだ」
「わさびも紀糸が大好きです───いいでしょう、どうぞ」
キスしたい、そう思ったら、先を越された。
目を閉じ、唇を突き出す彼女が愛しくて仕方ない。
俺はゆっくりと顔を近づけ、唇を触れ合わせた。
甘い。とにかく甘い。キスとは、こんなに甘いものだっただろうか。
何度も角度を変えて、彼女の柔らかな唇に自分のそれを重ねた。それだけは足りず、その甘い唇を食んでは放し、また食むを繰り返す。
どのくらい続けただろうか。
放したくない。このまま連れて帰りたい。
そう、思ったその時───
ブルルンっ!
シノノメ・ホースに鼻水をつけられた。
「俺のわさびにいつまでくっついてるんだ、と言っています」
「俺のわさび、だと? いつからお前のわさびになった、わさびは俺のだ」
わさびが、ほんの少し微笑んでいる。無表情が基本の彼女のそんな顔を見たのは初めてかもしれない。
「わさび、さっきの話だが……今夜会えるか? むしろ俺はそのつもりでホテルも押さえてある」
「明日、カフェの杏奈ちゃんが、わさびのサプライズお誕生日会を計画してくれています」
……サプライズなのに、知っているんだな。果たしてそれは、サプライズと言えるのだろうか。
「いや、明日でなくて、今夜だけでもいいんだ」
せめて、日付が変わる時は一緒にいたい。
「嫌です」
「っな! どうしてだよ」
今さっき、気持ちを伝え合ったばかりだった気がするのだが……もしかして、夢だったのだろうか。
「足りません。今日はもう、わさびのお仕事は終わりです。ずっと紀糸と一緒にいます。午後も夜も、明日の朝も、サプライズお誕生日会も、全部紀糸と一緒です」
───おいおい……どうしたんだこの子は急に……こんなに素直で可愛かったのか?
「わさびは好きな人にはこんな感じです」
───好きな人に昇格してよかった……
「紀糸っ行きましょう! 圭介に自慢します。わさびはちゃんと、紀糸に大好きだと伝えられました。褒めてもらいます」
「そうだな」
……あんな奴に褒めてもらわなくても、俺がいくらでも褒めてやるのに……まぁいいか。