まだ君は知らない、君の歌



「新ボーカル、見つけた」


 片桐奏良は、それが当たり前のことみたいに言った。
 部室の空気が、一瞬静まり返る。
 私は、ただ立ち尽くしていた。

(……え? 今、なんて?)


「……えっと」


 一番に反応したのは、見た目が女の子みたいに可愛い先輩──ベースの朝倉真緒だった。
 ふわっとした髪と、柔らかい雰囲気。長いまつ毛に縁取られた瞳がぱっちりしていて、けれど近くで見ると男の子だと分かる。


「マジ? この子?」

「うん。俺の理想の声だった」

「そっかー……。可愛いから俺は大歓迎だけどね」


 なんでそこで納得したのか、全然分からなかった。
 むしろ私の方が困惑してる。
 私は必死に声を振り絞った。


「ま、待ってください! 私、本当にそういうの無理で……!」

「うるさい。説明くらいしてやれよ」


 不機嫌そうに声を挟んだのは、ドラムの夏目隼人。
 無愛想で、眉間に皺が寄っている。でも、何故か言ってることは優しい。


「知らねぇ奴にいきなり部室連れてこられたら怖ぇだろ」


 そう、私は心の中で必死に頷いた。
 けれど、奏良は悪びれもせずに続けた。


「説明しても無駄だよ。聴けば分かるから」

「それが一番こえぇんだよ」


 隼人は呆れたように頭を掻いた。


「……悪くない」


 最後にぽつりと呟いたのは、キーボードの黒瀬悠。
 壁にもたれているだけなのに、存在感がある。無口で、表情もほとんど変わらない。
 でも、その一言で部室全体の空気が変わった。


「でしょ?」


 奏良が、嬉しそうに微笑む。


「俺の耳は間違ってない。だから──一ノ瀬絃音(いちのせ いと)さん」

「え?」


 不意にフルネームで呼ばれて、びくっとする。
 気づけば、奏良は私の目の前に立っていた。


「お願い。俺の曲、歌って」

「……っ」

「俺、本気で君の声が必要なんだ」


 穏やかな声なのに、拒否できない空気だった。
 まっすぐに見つめられて、言葉が出てこなかった。

(なんで……。私なんかに)


「……怖い?」


 奏良は小さく訊いた。
 私は、震える声で答えた。


「……怖い、です」

「だよな」


 それは、夏目隼人の声だった。
 私の後ろから、ぽんと頭を軽く叩かれる。


「こんなの、怖くて当たり前だって。……なぁ?」

「……え?」

「お前が普通だ」


 不器用そうな声だった。
 けれど、その一言が少しだけ心をほどいた。


「でもな──」


 隼人は、私の正面に立っていた奏良を見た。


「こいつ、多分お前が思ってるより馬鹿で、本気なんだよ」

「……」

「だからまぁ、ちょっとだけ付き合ってやってくれ」


 言葉が出なかった。
 でも、なぜか少しだけ涙が出そうになった。


「……じゃあ、一回だけでいいから」


 奏良の声が響いた。


「何も考えなくていい。……俺がギターで支えるから」

「……」

「君が声を出してくれるなら、それだけでいい」


 私は、俯いたまま、小さく頷いていた。
 怖かった。でも、この人は──みんなは──本当に音楽と向き合っているんだと思った。


「……じゃあ、行こう」


 奏良はギターを手に取った。
 静まり返った部室で、私はマイクスタンドの前に立たされる。


「聴かせて」


 彼の言葉が、優しく響いた。

 その瞬間──私は、初めて“本気で歌う”ことになる。
 それが、私と音楽の、本当の始まりだった。


< 3 / 16 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop