深緑の花婿
大切な時間
コノハが皇宮に来てから、約二ヶ月が経った。まだ雪が降る日も時々あるので、寒い時期が続いている。
相変わらず建比古は、分かりやすく自分の弟に対してもやもやとしているようだったが、コノハは引き続き篤比古と関わる業務が多いようだ。自主勉強や食事等、篤比古の身の回りの事だけでなく、この頃はシマの世話の補助も始めたらしい。
また最近は、白人は怜明天皇に接する業務で忙しいようだ。
白人の代わりではないが、篤比古の自由時間に、篤比古が手作りの猫じゃらしでシマを遊ばせているのを、コノハが微笑ましく見ている時間も増えてきた。
それから、彩女の事務の手伝いをしている時に、コノハは筆の使い方も習うようになった。
コノハが筆を使うのに慣れてきたら、彩女から簡単な文字を教えて貰うことも約束したらしい。
そのように新しいことを少しずつ覚えていく、慌ただしい日々を送っていたコノハだったが、仕事以外で、どうしても心がざわついてしまうことが一つあった。
それは、コノハが一人で廊下を歩いている時である。遠くからコノハを見て、若い女官たちがひそひそ話をしていたり、睨《にら》んできたりすることが何度もあったようだ。
その度に、コノハは何だか気まずい思いをしてしまう。きっと熱狂的な支持者のように建比古に憧れているのか、それとも淡い気持ちなのか本気なのか、片思いをしている娘たちなのかもしれない、と……。
(なんか……嫉妬されているっぽい、のかな? とはいえ、わたしの周りの人を気にし過ぎているのに、建比古さま、ご自分の魅力には全く気付いていないなぁ~……)
夕食を取るために、コノハは衛士府に向かう途中で、薄っすら苦笑いをしながら歩いていた。
衛士府の建物の側まで来ると、見回りをしている近衛兵の二人組とすれ違った。コノハは建比古の執務室までの道順がうろ覚えだったので、近衛兵たちに執務室の場所を尋ねたようだ。
何とか建比古の執務室まで辿り着くと、コノハは「失礼いたします……」と出入り口の引き戸の前で声をかけた。
だが、建比古の返事は聞こえなかった。引き戸に鍵は掛かっていないようなので、コノハは恐る恐る引き戸を開けて、執務室の中に入った。
建比古の執務室は静かだった。篤比古の書斎よりも狭く、棚や机の上は書物でいっぱいだ。西側の角には、とても小さな仏壇があるようだ。
コノハが何となく部屋の以前の様子を思い出したが、家具の配置が少し変わったようだ。大量の書物が置いてある机は壁の方に寄せられていて、空いた空間には一人用の食台と椅子が置かれている。
新しく置かれた食台の前の椅子に座る前に、コノハは一番奥にある背もたれの高い大きな椅子に座っている建比古に声をかけるべきか、悩んでいたようだ。
建比古は両腕を組んで、背もたれに背中を当てながら、うたた寝をしていたからだ。
ひとまず自分用らしい食台の前の椅子に腰かけようと、コノハは椅子を後ろに移動した。
すると、椅子を動かした時の音がしたためか、建比古はすぐに目を覚ましたようだ。
「お疲れ様です、起こしてしまってすみません。……ちょっと早く来過ぎた、かな?」
「そんなことは無い。……仕事には慣れてきたか?」
「はい。……少しずつですが、彩女さんだけや白人さんだけでなく、篤比古様からもいろいろなことを教わっています」
建比古は「……そうか」と呟くと、大きく欠伸をした。
「最近、人事異動関係の仕事で忙しくてな。あまり事務は得意じゃないのもあって、いつも以上に疲れてる。
……でも、お前の顔を見たら、疲れが吹き飛んだ気がするな。来てくれて感謝している」
コノハは少し対応に困って、「え、あ――」と小声を出すことで精一杯だった。
『お前の顔を見たら』云々、さらりと夫らしい男前なことを言えるのは、流石は大人の殿方である。
その時、部屋の出入り口から足音が聞こえてきた。
コノハが引き戸の方を見ると、「夕食をお持ち致しました」という女官の声がした。
コノハが引き戸を開けると、二人の女官が夕食の膳を持って立っていた。
コノハは膳を受け取ると、女官にお礼を言って、建比古の机の上まで運んだ。声かけをしていない女官から、もう一つの膳を受け取ると、コノハは自分の机の上に置き、女官たちに会釈をした。
「……運ばせて悪いな」
「いえ、気にしないでくださいっ」
コノハは椅子に座ると、建比古と一緒に「頂きます」と言いながら両手を合わせた。
今晩の主菜は、豚肉の醤油煮だ。コノハは豚肉を一口食べた後に、玄米入りの白飯を箸で口に入れた。
「このお肉……、とても柔らかくて、ほんのり甘いですねっ! 初めて食べました、何のお肉ですか??」
「豚の肉だ。……美味いか?」
「はいっ! 村で食べていた硬~い猪肉よりも、おいしいですね!!」
皇国では、基本的に肉は高価である。庶民が食べられる肉は、たまにしか食べられない野生動物のものしか無いのだ。狩人の知り合いが居ない者は、肉も食べられる機会が全く無いらしい。
それ故、コノハは豚肉を食べられたことに感激をしたようだ。
「そーいや、……前に父方の叔父から武術を習った、と言っていたな。その人について興味があるんだが、詳しく話を聞かせてくれないか?」
食事が一段落した時に、建比古は再び声を出した。
コノハは小さく返事をすると、以前に住んでいた薬畑山での暮らしについて、ゆっくりと話し始めた。
相変わらず建比古は、分かりやすく自分の弟に対してもやもやとしているようだったが、コノハは引き続き篤比古と関わる業務が多いようだ。自主勉強や食事等、篤比古の身の回りの事だけでなく、この頃はシマの世話の補助も始めたらしい。
また最近は、白人は怜明天皇に接する業務で忙しいようだ。
白人の代わりではないが、篤比古の自由時間に、篤比古が手作りの猫じゃらしでシマを遊ばせているのを、コノハが微笑ましく見ている時間も増えてきた。
それから、彩女の事務の手伝いをしている時に、コノハは筆の使い方も習うようになった。
コノハが筆を使うのに慣れてきたら、彩女から簡単な文字を教えて貰うことも約束したらしい。
そのように新しいことを少しずつ覚えていく、慌ただしい日々を送っていたコノハだったが、仕事以外で、どうしても心がざわついてしまうことが一つあった。
それは、コノハが一人で廊下を歩いている時である。遠くからコノハを見て、若い女官たちがひそひそ話をしていたり、睨《にら》んできたりすることが何度もあったようだ。
その度に、コノハは何だか気まずい思いをしてしまう。きっと熱狂的な支持者のように建比古に憧れているのか、それとも淡い気持ちなのか本気なのか、片思いをしている娘たちなのかもしれない、と……。
(なんか……嫉妬されているっぽい、のかな? とはいえ、わたしの周りの人を気にし過ぎているのに、建比古さま、ご自分の魅力には全く気付いていないなぁ~……)
夕食を取るために、コノハは衛士府に向かう途中で、薄っすら苦笑いをしながら歩いていた。
衛士府の建物の側まで来ると、見回りをしている近衛兵の二人組とすれ違った。コノハは建比古の執務室までの道順がうろ覚えだったので、近衛兵たちに執務室の場所を尋ねたようだ。
何とか建比古の執務室まで辿り着くと、コノハは「失礼いたします……」と出入り口の引き戸の前で声をかけた。
だが、建比古の返事は聞こえなかった。引き戸に鍵は掛かっていないようなので、コノハは恐る恐る引き戸を開けて、執務室の中に入った。
建比古の執務室は静かだった。篤比古の書斎よりも狭く、棚や机の上は書物でいっぱいだ。西側の角には、とても小さな仏壇があるようだ。
コノハが何となく部屋の以前の様子を思い出したが、家具の配置が少し変わったようだ。大量の書物が置いてある机は壁の方に寄せられていて、空いた空間には一人用の食台と椅子が置かれている。
新しく置かれた食台の前の椅子に座る前に、コノハは一番奥にある背もたれの高い大きな椅子に座っている建比古に声をかけるべきか、悩んでいたようだ。
建比古は両腕を組んで、背もたれに背中を当てながら、うたた寝をしていたからだ。
ひとまず自分用らしい食台の前の椅子に腰かけようと、コノハは椅子を後ろに移動した。
すると、椅子を動かした時の音がしたためか、建比古はすぐに目を覚ましたようだ。
「お疲れ様です、起こしてしまってすみません。……ちょっと早く来過ぎた、かな?」
「そんなことは無い。……仕事には慣れてきたか?」
「はい。……少しずつですが、彩女さんだけや白人さんだけでなく、篤比古様からもいろいろなことを教わっています」
建比古は「……そうか」と呟くと、大きく欠伸をした。
「最近、人事異動関係の仕事で忙しくてな。あまり事務は得意じゃないのもあって、いつも以上に疲れてる。
……でも、お前の顔を見たら、疲れが吹き飛んだ気がするな。来てくれて感謝している」
コノハは少し対応に困って、「え、あ――」と小声を出すことで精一杯だった。
『お前の顔を見たら』云々、さらりと夫らしい男前なことを言えるのは、流石は大人の殿方である。
その時、部屋の出入り口から足音が聞こえてきた。
コノハが引き戸の方を見ると、「夕食をお持ち致しました」という女官の声がした。
コノハが引き戸を開けると、二人の女官が夕食の膳を持って立っていた。
コノハは膳を受け取ると、女官にお礼を言って、建比古の机の上まで運んだ。声かけをしていない女官から、もう一つの膳を受け取ると、コノハは自分の机の上に置き、女官たちに会釈をした。
「……運ばせて悪いな」
「いえ、気にしないでくださいっ」
コノハは椅子に座ると、建比古と一緒に「頂きます」と言いながら両手を合わせた。
今晩の主菜は、豚肉の醤油煮だ。コノハは豚肉を一口食べた後に、玄米入りの白飯を箸で口に入れた。
「このお肉……、とても柔らかくて、ほんのり甘いですねっ! 初めて食べました、何のお肉ですか??」
「豚の肉だ。……美味いか?」
「はいっ! 村で食べていた硬~い猪肉よりも、おいしいですね!!」
皇国では、基本的に肉は高価である。庶民が食べられる肉は、たまにしか食べられない野生動物のものしか無いのだ。狩人の知り合いが居ない者は、肉も食べられる機会が全く無いらしい。
それ故、コノハは豚肉を食べられたことに感激をしたようだ。
「そーいや、……前に父方の叔父から武術を習った、と言っていたな。その人について興味があるんだが、詳しく話を聞かせてくれないか?」
食事が一段落した時に、建比古は再び声を出した。
コノハは小さく返事をすると、以前に住んでいた薬畑山での暮らしについて、ゆっくりと話し始めた。