貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第02話 騎士団での冷遇と誹謗

 夜がまだ完全には明けきらぬ頃。空は墨を溶かしたような灰色で、凍てつく空気が肌を裂くように吹き込む。
 その空気の中、ひとりの少年が黙々と木剣を振っていた。

 ノワール・ヴァレリアン、十六歳。
 平民出身の勇者候補──ただし、『魔力ゼロ』と烙印を押された落ちこぼれ。

 剣を振るその手は、かすかに震えている。
 疲れや寒さではない。
 皮膚の切れた指から滲む血が、柄に染み込み、冷えた空気とともに痛みを残している。

 しかし、彼は気にしなかった――気にしていられなかった。

「おい、雑用。昨日の剣の手入れ、終わってねぇぞ。雑かよ、ったく」
「水汲みも遅いんだよ。貴族様を待たせるとか、勇者候補のくせにいい度胸だな」
「『勇者』って……どの口が言ってんだか。恥ずかしいなぁ、身の程知らずが」

 周囲から浴びせられる罵声は、もう耳に残らなくなっていた。
 冷笑、嘲り、侮蔑。どれもこれも、繰り返されすぎて、皮膚の一部のように馴染んでいた。
 ノワールは顔を上げず、無言で剣を振り続けた。
 その瞳の奥には、無表情の仮面の奥に隠された──耐えることを選んだ少年の意志があった。

 転倒しても、誰も手を貸さない。
 血を流しても、誰も気づこうとしない。
 それでも彼は、立ち上がる。
 何度も、何度でも。泥にまみれ、傷つきながら、ただひたすらに剣を振る。

(強くなれば、何も言わせなくて済む。誰にも、見下されなくて済む。きっと──)

 少年の剣が、寒空の中、夜明けの光をかすかに跳ね返した。
 誰にも見えない場所で、ひとりの『落ちこぼれ』が、静かに這い上がろうとしていた。

 一方その頃、王都の社交界では、カローラ・エヴァレットが『噂』と言う名の中心に立っていた。

「エヴァレット家の令嬢、まだあの平民と婚約してるらしいわよ」
「魔力ゼロの落ちこぼれだって。破談にならない理由がわからない」
「愛?ふふ、馬鹿げてる。侯爵家の娘が、そんな情で人生を捨てるなんて──恥を知りなさい」

 ドレスの裾が軽やかに舞い、音楽と笑い声が空気を飾る舞踏会の真ん中。
 けれど、その華やかな仮面の裏では、悪意が甘美な毒として囁かれていた。
 カローラは笑った。
 完璧な令嬢の微笑みで、誰にも隙を見せない顔を作り上げた。

 ──けれど、その笑顔は冷たかった。

 氷でできた仮面のように。微細な衝撃で砕け散ってしまいそうなほど、脆くて繊細な仮面。
 後悔はしていない。
 彼の傍にいる、婚約者としての自分を、後悔などして――いなかったはずだった。

 その夜、カローラは侯爵の書斎に呼び出された。
 分厚い扉が閉まり、部屋の空気が変わる。
 父親である男は、カローラに冷たい一言を告げた。

「……もう十分だ、カローラ。ノワールとの婚約は破棄しなさい」

 言葉は短く、冷たかった。

「これ以上、我が家の名に泥を塗るな」
「……父様」
「お前は侯爵家の娘だ。魔力も家柄もない平民に、これ以上縛られる必要などない」
「でも……」
「愚かな情に縛られるな。貴族の義務を果たせ。私情は、切り捨てよ」

 カローラは、目を伏せたまま、そっと手を組んだ。
 白い手のひらが、震えている。自分でも止められないほどに。

(わかってる……わかっているのに)

 それでも、思いは心に湧いてしまう。

(──でも、本当にこれが彼のためなの?私が彼を切り離せば、彼は自由になる。あの冷たい目や言葉からも、きっと……)

 そう信じようとした。信じることで、せめて自分を納得させようとした。

(私だけが、傷つけばいい……泣くのは、私だけでいい。彼には、前を向いて歩いてほしい……)

 そう言い聞かせるたびに、胸の奥がきしむ。
 まるで、古い扉が無理やり開かれるような音を、心が立てていた。

    ▽

 社交界の終わりを告げる夜。
 年に一度の、最も格式高い舞踏会。
 ホールを照らすシャンデリア。響き渡る弦楽器の旋律。
 貴族たちが笑い、踊り、誇りと虚飾を纏って揺れていた。
 カローラは、誰よりも美しかった。
 その笑顔も、その振る舞いも、淑女として完璧だった。

 だが──その目だけは、どこか遠くを見ていた。

 そして――ふと、視線がある一点に吸い寄せられる。
 壁際に立つ黒髪の少年、ノワール・ヴァレリアン。
 彼は、舞踏会という色彩の世界の中で、影のように立ち尽くしていた。

 誰とも目を合わせず。
 誰とも言葉を交わさず。

 ただそこに、存在していた。

「おや、あれが『無能』と呼ばれている『勇者』とかいう……」
「場違いにもほどがあるわ。あんなの、まるで影法師ね」

 カローラのダンスの相手が、あからさまな皮肉を投げかけた。
 けれど彼女は、返事をしなかった。
 舞を止めず、笑顔も崩さず、ただ音楽に身を預け続ける──ノワールを、一度も見ようとはしなかった。
 その胸に、じわりと広がる痛み。
 それは、名もない熱のようで、ずっと無視し続けなければ、涙に変わってしまいそうだった。

 夜が更け、舞踏会も終わりを迎えた頃。
 静まり返った屋敷の広間に、月明かりが差し込む。
 カローラは、一人、ノワールを呼び出した。
 誰もいない、声すら吸い込まれるような静かな場所で。
 彼は無言で現れた。足音すら立てずに、そして、ただ、彼女を見つめる。
 その黒い瞳には、何も宿っていなかった。
 光も、怒りも、哀しみすらも──すべて、どこかに置いてきてしまったように。

 カローラは唇を震わせながら、一歩、前に出る。

「……ノワール・ヴァレリアン」

 その名を呼ぶと、彼のまぶたがかすかに揺れた。
 けれど、何も言わない。何も、期待していない。
 静かすぎる沈黙が、二人の間に流れ、それは、言葉よりも重く、心を削るような沈黙だった。

 そして――言ってしまった。

「……あなたとの婚約は、ここに破棄する」

 その言葉が、やっとのことで絞り出された。
 震える声。けれど、誤魔化さず、逃げなかった。

 長い、沈黙――ノワールは、ゆっくりとまばたきをし、口を開く。

「そうか……わかった」

 ただ、それだけだった。
 乾いた声。怒りも、悲しみも、ない。ただ静かに。
 彼は踵を返し、一度も振り向かずに歩き出す。
 そして、闇の中へと消えていった。
 カローラは、その背を、ずっと見送っていた。
 笑わなかった。泣かなかった。
 ただ、ドレスの裾を掴む手が、震えており、その震えが、彼女の心の奥底で何かが壊れたことを、何よりも雄弁に語っていた。

(……これで、よかったの……かしら)

 唇を噛みしめながら、カローラは己自信を呪ったのだった。
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