貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第06話 黒衣の勇者、再臨

 重厚な扉が鈍く軋み、音を立てて閉じた。
 その響きはまるで、外界から希望を遮断する音――まるで、王国を見捨ているかのような、そのような音に聞こえた。

 王宮の戦略会議室。
 金と瑠璃で飾られた豪奢な空間に、不釣り合いな沈黙が満ちており、煌びやかな装飾は、今や王国の惨状を痛々しく照らし出す。
 国王ローランドは椅子に身を沈め、目を閉じる。
 手元の書類の束には、各地からの戦況報告とともに――ある『名前』の調査記録が挟まれている。
 そして、彼は低く、かすれるような声で口を開いた。

「……ノワール・ヴァレリアンの居所を探せ。どんな犠牲を払ってでも、だ」

 空気が凍る――その名が出た瞬間、会議室の空気は激しく揺れた。

「ノワール……?」
「まさか、あの……魔力ゼロの落ちこぼれが、まだ生きていたというのか……」

 神殿代表が身を震わせる。騎士団幹部たちは沈黙し、いく人かは深く顔を伏せた。
 誰もが、『その名』に抗いようのない重みを感じ取っていた。

「報告書をご覧ください」

 軍務卿が一枚の文書を掲げた。手はかすかに震えている。

「『漆黒の衣を纏う男が突如出現。雷光と業火が天地を裂き、神の姿を模した敵が、一太刀で斬り伏せられた――』」
「……神を、斬った……?」

 誰かが呟き、その言葉に部屋全体が震えた。

「信じ難いだろう。だが、東部戦線、北辺の遺跡防衛戦、さらにカリアスの空中神殿――どれも同様の証言がある。地名も、時刻も、証人も異なる。だが、あまりに……一致している」
「同一人物だというのか……?」
「『黒衣の戦士』あるいは、『黒衣の勇者』――その名が噂として、既に国中を駆け巡っている」

 ローランド王はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い悔恨の色が滲んでいた。

「……その名こそ、ノワール・ヴァレリアン。間違いない」

 再び、静寂が訪れる。
 しかしその静けさは、ただの沈黙ではなかった。
 後悔、羞恥、そして、己の愚かさを噛み締めるような、沈黙。

「彼は……すべてを失った。我々が、奪ったのだ。誇りも、名誉も、未来も」

 王の声は震えていた。

「勇者候補として拾われながら、『魔力ゼロ』という理由で冷遇され……挙げ句の果てに、除籍された。誰も彼を信じなかった。私も……だ」

 誰も反論しなかった。できる者などいない。

「……『神を斬った』など、認められるか」

 その言葉が、冷たい刃のように会議室の空気を切り裂いた。
 発したのは、神殿代表──高位神官レオナール。
 長い白髪を撫でつけ、厳格な衣を纏ったその男の眉間には深い皺が刻まれていた。

「神性存在への刃向いは、明確な『冒涜』だ。我ら神殿の教義において、それは断じて赦されぬ罪だ」

 レオナールの声には、信念と怒り、そして恐れが混じっていた。
 彼の語る『神性』は、ただの存在ではない。
 『王国の柱』として信じられてきた概念そのものなのだ。

「……『黒衣の勇者』がノワール・ヴァレリアンだとすれば……彼は、もはやただの異端者に過ぎん」

 静まりかえった室内に、その声だけが冷たく響く。
 だが、次の瞬間、若い声がその静寂を打ち破った。

「──その『異端者』に、民は救われているのです」

 席を立ったのは、王直属第一騎士団の団長・ライエル。
 まだ二十代半ばの若き将で、厳しい訓練と実戦を経て抜擢された実力者だった。

「あなた方が『神』と呼ぶものが、民を救ってくれましたか?」

 その言葉に、会議室がざわめく。

「王都の北で、村ひとつが魔族に襲われました。神官の祈りは届かず、軍も間に合わなかった。──でも、『黒衣の勇者』は、そこにいた」

 ライエルの拳が、机の上で小さく震える。
 彼は、その地に派遣された部隊の一員だった。
 地獄のような現場を、自分の目で見てきたのだ。

「神ではなく、『彼』が人々を救ったんです。異端?冒涜?そんな言葉で、今この国の命運を切り捨てるおつもりですか」

 鋭く問いかけられ、レオナールは言葉に詰まった。

「……教義を守るのは、我ら神殿の……いや、王国全体の秩序を守るためだ」

 彼の声は揺れていた。確信ではない。
 それは、古くなった信仰の軋みが生む、苦しげな正論だった。

「その『秩序』が……彼を切り捨てたのではありませんか?」

 ライエルの声は、静かだった。だが、その言葉は重く、刃のように鋭かった。
 会議室に沈黙が落ちる。
 レオナールは目を閉じ、言葉を探すように唇を噛んだ。
 すると、長く黙っていた老貴族が、小さな声で呟いた。

「……我々は、いったい何をしていたのだ……」

 その声には、後悔と恐れがにじんでいた。
 名門の家柄に生まれ、長年王国の舵を握ってきた彼が、その全てを失うかもしれない恐怖に怯えていた。
 しばしの沈黙ののち、誰かがぽつりと呟く。

「ノワールに……頭を下げるのか?」

 その問いに、皆が息をのむ。
 今なお『平民の出』であり、『追放された無能の少年』である彼に、頭を下げる。
 それは、王国そのものの過ちを認める行為だった。

 そして──

「……下げよう」

 静かに、重く、王ローランドが口を開いた。
 全ての視線が、彼に向けられる。

「たとえ、それがどれほどの屈辱であろうとも。今この国を救える者が彼しかいないのなら──」

 彼は一枚の報告書に視線を落とし、その名を、唇でなぞるように呟いた。

「……私はこの手で、彼に詫びよう」

 それは、王としての誇りを捨てる言葉だった。
 だが同時に、それこそが王としての『責任』でもあった。
 静寂の中で、その言葉だけが確かな灯火となって、広間に灯り始めていたのである。

 一方その頃、王都の裏路地、場末の酒場、そして神殿の外れ──人々は、誰からともなく、ある名を囁き始めていた。

「『黒衣の勇者』……まさか、本当にいるとはな」
「見たって奴がいた。炎の中から現れて、魔族どもを──まるで塵みたいに、一瞬で消し飛ばしたって」
「……神様より、強いんじゃないか……?」
「……いや、俺は信じる。あの人だけが……この国を守ってくれる」

 不安と絶望に沈んでいた王都の空気の中に、ほんの僅かな光がともり始める。
 それは、神への祈りでも、制度への忠誠でもなかった。
 ただ──人としての『信頼』だった。
 信じたくなるだけの力を、言葉を、背中を持った者にだけ与えられる、静かで確かな希望の灯火。

 その日、神殿から荘厳な声明が発表された。

 『ノワール・ヴァレリアンは禁忌を犯した者。神性を斬りし冒涜者として、神の名において裁く』

 荘厳な語調、金色の聖印、整列する聖職者たちの前で告げられた言葉。
 だが──民衆の反応は、かつてないほどに冷ややかだった。

「……神さまが何をしてくれたっていうんだ」
「街が焼かれてる時、神は沈黙した。けど、『あの人』は現れた。俺たちを、助けてくれた」
「もう信じない。神なんかじゃない。『黒衣の勇者』──俺たちには、あの人がいる」

 神殿前で配られた声明の写しは、通りの片隅で無造作に丸められ、雨に濡れていた。
 踏みしめられたその紙片が、時代の変わり目を静かに物語っていた。

    ▽

 その噂は、エヴァレット領にも風に乗って届いた。
 侯爵家の私邸、その奥まった書斎。
 重厚な机の上には、各地から取り寄せられた新聞の切り抜きと、軍から届いた極秘報告書が無造作に広げられている。

「……『黒衣の勇者』……ノワール……?」

 カローラ・エヴァレットは、その名を口にした瞬間、手にしていた書類をはらりと落とした。
 指先が震える。鼓動が早まる。
 その名が、彼女の中にあまりにも深く根を張っていた証だった。

「そんな……嘘……よね……?」

 自分に問いかけるような声。
 だけど、否定の言葉はすぐに飲み込まれる。

 ──あの雨の日。

 背を向けた彼の姿。振り返らなかったその背中が、まざまざと記憶の中に蘇る。
 冷たい雨に濡れながら、何も言わずに去っていった少年。
 そして、今――その彼が、『神を斬った』と、国中が口を揃えて語っている。

「……ノワール……あなた、本当に……?」

 吐息のような声が、震える唇から漏れる。
 まるで空気の重さに押し潰されるように、彼女は胸元をぎゅっと押さえた。
 もし、あの時――あの背中にすがっていたら。
 手を伸ばしていたら──何か、違った未来があったのだろうか。

(……私が、あのときの『正しさ』を選ばなければ……)

 理性と誇りと、家の名。
 それらを選んだ代わりに、確かに失ったものがあった。
 その痛みが、今になって胸の奥でずっと疼いている。

 だが、彼女はまだ知らなかった。

 あの名を持つ少年──ノワール・ヴァレリアンが、今まさに王都へと向かっていることを。

 全てを失ったあの日から、ただひとつの執念だけを支えに歩んできた彼が、自らの意志で、この世界そのものを再びその手に握ろうとしている事を。

 そして何より──彼女の心をも、その手に取り戻すために。

 かつて愛した少女を、もう二度と逃さぬために。

 『黒衣の勇者』は、静かに歩みを進めていた。
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