貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第09話 彼の隣にいるということ

 窓辺に吹き込む風が、白いレースのカーテンを優しく揺らしていた。
 その動きはまるで、この屋敷の中に満ちた重たい沈黙を、そっと外へ運び出そうとしているかのようだった。

 エヴァレット侯爵家の離れ屋敷。
 かつては訪問客や使用人たちが短期滞在するための小さな住まいだったそこが、今では――『勇者ノワール』の私的な駐在所として、外界から完全に隔離されていた。
 門には王都から派遣された見知らぬ騎士が立ち、屋敷の敷地には一切の出入りが制限されている。
 彼らの姿は、明らかに『守る』というより、ノワールをこの国から『封じる』という意図を帯びていた。
 表向きの理由は『領主令嬢の護衛』。
 だが、この場にいる誰一人、それを額面通りには受け取っていなかった。
 使用人たちは、余計な言葉を交わすことを避け、目すら合わせようとしない。
 そして皆が、気づいていながら口に出さない。

 ──この屋敷には『異質な何か』が棲んでいるのだと。

 ノワール・ヴァレリアン。
 その名を誰かが囁くたび、空気が冷たく引き締まる。
 彼がどこにいるのか。何をしているのか。
 そもそも、本当に存在しているのかさえ分からない。

 けれど――カローラだけは知っていた。

 彼は、常に傍にいる。
 目に映らなくても、気配が確かにそこにあった。
 呼吸の隙間に潜むような沈黙。扉の奥に漂う熱。視線の余韻。
 それらが、見えない鎖のように彼女の肌を撫でていく。
 決して触れてこないのに、まるで触れられているような、奇妙な感覚。

 朝の食卓――焼きたてのパンの香りが部屋を満たし、陽射しがテーブルクロスに柔らかい影を落とす。
 カローラが席に着いて間もなく、静かに――本当に、何の音もなく、ノワールが向かいの椅子に座っていた。

「……また、黙って現れて」

 パンの香ばしい匂いと温かいスープの湯気に包まれた穏やかな空間で、カローラはつい、ため息混じりに呟いた。
 振り返れば、ノワールがそこにいた。
 いつからいたのか、まったく気づかなかった。
 足音も、気配も、気づかせる意思すらなかった。
 彼は、いつものように仮面をつけたまま、カローラの真正面の席に静かに腰を下ろしていた。
 その動作は滑るように滑らかで、余計な音も立てず、影だけがそこに置かれたような錯覚さえ覚えるほどだった。
 おはよう――と言ってくれるわけでもない。
 無言のまま、彼女を見つめている。
 じっと、まるで視線だけで思考を交わそうとしているかのように。
 彼の前には、銀の食器と湯気の立つ料理が並んでいる。
 けれど、ノワールはそれに一切手をつけようとしない
 ナイフにもフォークにも触れず、ただ腕を組むこともなく、まっすぐにカローラの動きを見つめ続けていた。
 パンを手に取る。
 スープを口に運ぶ。
 その、些細な動作の一つひとつにさえ、彼の瞳が追従してくるのが、はっきりとわかった。

(……そんなにじっと見ないで)

 胸の奥が、ざわめく。
 無視するには、あまりにも熱がこもった視線だった。

「ノワール……そんなに、見つめないで……食べづらいわ」

 できるだけ軽い口調で、冗談のように言った。
 けれど自分の声が、ほんの少しだけ震えているのを、カローラ自身が一番よく知っていた。
 ノワールは、少しだけ瞬きをした。
 それはまるで、『気づいた』というわずかな反応。
 そして、静かに口を開く。
 その声は低く、深く、そしてどこか……哀しみを含んでいた。

「……見ていないと、不安になるんだ。君がまた……消えてしまうんじゃないかと」

 静かに放たれたその一言が、部屋の空気を一変させた。
 カローラの手元が止まる。
 ナイフの刃先が皿の端に触れ、かすかな音を立てた。

「……ノワール?」

 問いかけるように名前を呼んでも、彼は微動だにしない。
 ただ、仮面越しに彼女を見つめたまま、視線を逸らそうとしなかった。
 その言葉は、単なる護衛の義務や忠誠とは違う、どこまでも個人的で、胸の奥に棲みついた恐れが滲んでいた。
 彼の『見ている』という行為は、ただの確認ではなかった。
 それは、彼にとっての祈りであり、執着であり、存在を確かめる唯一の手段だった。

(……あの夜のこと、忘れていないのね)

 十年前の雨――彼を拒み、自分の手で背を向けさせた、あの夜。
 その記憶が、彼の中でどれほど深く刻まれていたか――今の言葉が、すべてを物語っていた。

「私は……もう、どこにも行かないわ」

 そう言ったつもりだった――けれど、声は小さすぎて、彼に届いたかどうかは分からなかった。
 ノワールの瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかく揺れたように見えた。
 それが錯覚でないのなら――彼もまた、十年前と変わらず、たった一人の『少女《カローラ》』を見続けているのだと、彼女は確信した。

 昼下がりの書斎――大きな窓から差し込む陽の光が、古い本棚や磨き上げられた机を温かく照らしていた。
 陽光の筋の中では、舞い上がった埃がまるで小さな精霊のように、ゆるやかに漂っている。
 カローラは、膝の上に重たい本を抱えたまま、ゆっくりとページをめくっていた。
 紙の擦れる音だけが、静寂を切り裂くように響く。
 ふと、視線を本から逸らしたその瞬間。
 気づけばすぐ隣――肩がほんの少しでも動けば触れそうな距離に、ノワールが静かに座っていた。

「……また、いつの間に……」

 小さく呟いた声は、書斎の広さに吸い込まれるように消えていく。
 ノワールは、何も答えなかった。
 手にした分厚い書物を開いたまま、まるで内容に興味があるわけでもなく、ただページを止めたまま、仮面越しの視線だけをカローラに向けていた。

(近い……近すぎる)

 息を呑むような距離、彼の肩のラインが視界の端に入り、淡く香る空気の温度すら変わった気がする。
 けれど、立ち上がることも、距離を取ることもできなかった。
 ノワールの放つ気配は、決して強圧的ではない。
 けれど、逃れがたい『重み』がある。
 それは、目には見えない鎖のように、静かに彼女の心を縛りつけていた。

「……読む気がないなら、そんな近くで座らないでくれる?」

 少しだけ意地を張るような声で言ってみた。
 だが、ノワールは視線を逸らさなかった。

「読んでいるよ。君の、呼吸の音を」

 瞬間、心臓が跳ねた。

「……は、ぁ? 何それ……」

 怒るでも、笑うでもなく、ただ困惑して返す。
 それなのに、頬の奥がわずかに熱を帯びていくのを、彼女自身が一番よく分かっていた。
 ノワールはそれ以上何も言わず、本を閉じた。
 その音が、妙に耳に残る。

(十年前は……)

 カローラの思考が、自然と過去へ引き戻されていく。

 あの頃、屋敷の裏で剣を振っていた少年に、彼女は一度たりとも隣に座ることを許さなかった。
 『身の程をわきまえなさい』と言ったこともある。
 距離を取るのが当たり前で、それが正しい関係だと、信じて疑わなかった。

 なのに今――その彼が隣にいて、当たり前のように沈黙を分け合い、彼の体温すら感じるこの距離に、恐れを抱くどころか、むしろ安堵すらしている自分がいる。

(……どうして、私は怖くないの?)

 手の中の本が、ずしりと重たく感じられる。
 けれど、その重さよりも、心の奥底に沈む想いの方が、はるかに重たかった。

(違う……)

 胸の奥で何かが言葉を持ったようにざわめく。

(私は、求めてしまってる……この人の傍を)

 その事実に気づいた瞬間、ページをめくる指先がかすかに震えた。
 ノワールは何も言わない。
 けれど、彼の瞳だけがすべてを見透かしているかのように、カローラの横顔を見つめていた。

 夜の廊下――静けさが屋敷全体を包み込み、遠くで風が揺らす木々の音だけが、かすかに響いていた。
 カローラは、扉の向こうに感じた微かな『気配』に、そっと手を伸ばす。
 ためらいながらも扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
 仄暗い廊下の先、窓辺にひとり立つ影があった。
 漆黒のローブに身を包み、銀の仮面が月光を淡く弾いている。
 その輪郭は夜の闇に溶け込み、まるでこの世界に属さない何かのように、ひっそりと佇んでいた。

「……眠れないの?」

 思わずそう声をかけていた。
 ごく自然な問いかけのはずだった。けれど、返ってきた答えは予想以上の答えだった。

「君が眠っている間も、誰にも触れさせない。たとえ世界が滅びようとも、君だけは……僕が見ていれば、それでいい」

 その声は低く、柔らかく、どこまでも穏やかだった。
 なのに、胸の奥を鋭く抉るような重さがあった。

 愛情、執着、独占――そのどれか一つではなく、すべてが一つに溶け合い、沈黙の中に滲んでいた。

「……それは……」

 言葉が続かなかった。
 喉の奥が詰まり、どうしても『正しい』答えが見つからない。
 彼の言葉は、美しい花のように見えて、棘を秘めていた。
 甘やかで、危うくて、痛みすら優しく感じさせるほどの、歪な優しさ。
 カローラは視線を落とし、静かに扉を閉めた。
 けれど、扉に触れた手のひらはいつまでも冷たく、まるで彼の言葉がそこに染みついているかのようだった。

 ──あの夜を、思い出す。

 雨の中、何も言わずに背を向けた、あの少年の姿。
 誰にも看取られず、ずぶ濡れのまま歩き去っていった、あの細い背中。
 自分は、その背中を見送ることしかできなかった。
 差し出された想いを、傷つけるように拒んだ。

 そして今――その少年が、神を斬り、世界を救い、誰もが跪く存在となって……何事もなかったかのように、また自分の隣に立っている。

 触れられていないのに、触れられている気がする。
 見られているだけなのに、その眼差しに心が包み込まれているような気がしてしまう。

「……ノワール……」

 思わず名を呼びかけそうになって、唇を噛む。

 (この人は……本当に、ずっと私を……?)

 胸が、痛くなるほど苦しい。
 けれど、その痛みの中に、逃れられない『喜び』が混ざっていた。
 十年もの時間を越えて、彼の眼差しは一度も揺るがず、自分だけを見つめ続けていた。
 それが――どうしようもなく、嬉しくて、そして……怖かった。
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