進路指導室で、愛を叫んで
 卒業式のあと、中庭に向かうと、予想通り先輩がいた。

 桜はまだ咲いていなくて、チューリップもつぼみのままだ。

 そんな閉ざされた中庭に立つ先輩は、そこにあるどんな花よりもきれいで、手に入らないのなら、桜の下に埋めてしまいたいくらい悲しかった。


「藤宮先輩」


 ゆっくりと近づいて声をかける。

 振り向いた先輩は、「須藤くん!」と笑顔で駆け寄ってきた。


「先輩、卒業おめでとうございます」

「ありがとう。……この一年、一緒にいてくれて本当にありがとう。須藤くんと花の世話ができて、すごく楽しかった」

「それは俺のほうです。先輩に花のこといろいろ教われて、嬉しかった。ありがとうございました」


 頭を下げると、喉が詰まって言葉が出ない。

 先輩は少し屈んで、俺の顔を見上げた。


「……泣かないでよ」

「ごめ、ごめんなさい……笑顔で、見送りたかったんですけど」

「私と別れて泣いちゃうのに、それでも、何も言ってくれないんだね……?」


 先輩がどんな顔でそれを言っているのか、目の前がぼやけていて全然わからなかった。

 俺は突っ立ったまま、うつむいて、肩をふるわせることしかできない。

 本当に、情けなくてかっこ悪い。


「須藤くん」

「……はい」

「一個、お願いしていい?」


 頬に何かが触れた。

 手探りで確かめると、それはハンカチで、先輩が俺の顔をそっとぬぐってくれていたらしい。

 瞬きをしたら、思ったより近くに先輩がいて、心臓が跳ねた。


「せん、ぱい……?」

「小春くん、どうして私に『好き』って言わないの? もう、好きじゃないの?」

「好きです。大好きです。世界で一番好きです。……でも、先輩は……」

「桐子」

「……桐子さんは、実家の花屋さん、継ぎたいんですよね。じゃあ、俺は桐子さんに好きって言えないです。俺は、あなたの夢の邪魔になりたくない」


 ハンカチを持ったままの先輩の手をそっと握った。

 折れそうなくらい細くて、乾いた指先だった。

 ぎゅっと目を閉じた。体の中の息を全部吐いて、それから必要な分だけ吸う。

 冷たい空気で、頭が冷えた。


「桐子さん。俺、あなたに初めて会ったときから、ずっと好きでした。でも、俺は実家を継がなきゃいけないから、一緒にはいられません。夢を語るときの、あのキラキラした顔が好きなんです。だから、曇らせたくない。俺は……一緒にはいられないけど、ずっとずっと、あなたの夢を応援しています」


 握ったままの手の指先に、そっと唇を触れさせて、すぐに離す。次に手の甲、手のひら、最後に手首にキスして、先輩の手を離した。

 藤宮先輩が、目を丸くして俺を見上げた。

 我ながら、かなりキザなことをしたと思う。

 どうしよう、と戸惑った瞬間、先輩の目からぽろっと涙がこぼれた。


「えっ、ちょ、先輩!? 泣かないでください……! ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」

「ばか! ばかばか、ばか!」

「ごめんなさい、ばかです……」


 先輩は俺の胸をポカポカ叩いてくる。

 まったく痛くはないのに、止めさせることができなかった。

 やがて、先輩は俺の学ランをぎゅっと掴んで、うつむいた。


「あの、先輩……?」


 ポケットからハンカチを出す。

 くしゃくしゃだけど、汚くは……いや、さっきトイレのあと使ったわ。

 ダメだ、俺は先輩の涙を拭いてあげることもできない。


「……ひとつ、お願い聞いて」

「はい。なんでもします」

「抱きしめて。少しだけでいいから」

「それは……はい、わかりました」


 そっと、先輩の華奢な背中に手を回した。

 柔らかくて、温かくて、いい匂いがして、寒いはずなのに汗が出た。

 俺の背中にも腕が回されて、抱きしめられる。


 どれくらいの時間だったか、全然わからなかった。

 五分かもしれないし、十分かもしれない。本当は、三十秒くらいだったのかもしれない。

 とにかく、それくらいしてから、先輩はゆっくり俺から離れた。


「……ありがとう」


 俺はまだ名残惜しくて、完全に手を離せない。

 見上げた先輩の瞳にはまだ涙が残っていて、まぶたは赤く腫れ、口はすねたように尖っていた。

 ……かわいいなあ。やっぱり、この人が世界で一番きれいで、かわいい。


「先輩。先輩の夢が叶うのを、俺は楽しみにしてます」

「……うん。ありがとう、須藤くん」


 ようやく笑ってくれた先輩から、俺は本当に名残惜しくて、泣く泣く手を離した。
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