迷惑かけても、いいですか?
第四章:心に触れたその日から
「……そろそろ慣れた?」
帰り道、神谷さんが車椅子を押しながら、穏やかに尋ねた。
仕事終わりのオフィス街には、夏の夜風が静かに吹いている。
誰かと並んで歩く――正確には「歩いてもらう」なんて、ずっと避けてきたことだった。
「……うん。少しずつだけど」
私はそう答えて、少しだけ空を見上げた。
真っ黒なビルの隙間から、小さな星がぽつんと光っている。
「一緒に帰るの、慣れてきたってこと?」
「それも……あるかな」
思わず言葉を濁すと、神谷さんは少し笑った。
「そっか。そりゃあ、よかった」
その笑顔が、まっすぐすぎて、また胸が苦しくなる。
どうして、こんなにも優しくできるんだろう。
誰かに踏み込まれるのが、怖かった。
でも今は、踏み込まれたいと思ってる自分がいる。
誰かと生きていくって、こういうことなんだろうか。
ふと、神谷さんが歩みを止めた。
「ちょっと寄り道していい?」
「え?」
「見せたい場所があるんだ」
彼が連れて行ってくれたのは、小さな川沿いの並木道だった。
夕方にライトアップされた木々が、水面に揺れて映っている。
「……わあ」
「……妹が好きだった場所なんだ」
少し寂しげに、でもどこかあたたかく彼が言った。
「千紗は、最初はずっと殻にこもってた。外に出るのも嫌がって、親にも俺にもあたり散らしてたよ」
その声は静かで、優しくて――少しだけ苦しそうだった。
「でもある日、ふと、こんなこと言った。“私、誰かに迷惑かけるくらいなら、いない方がマシ”って」
私の心臓が、きゅっと小さく痛んだ。
「……わたしも、昔言ったことある。まったく同じ言葉」
「だろうな」
神谷さんは私の方を見た。
まるで、私のなかの痛みを全部見透かしているような目だった。
「でも、俺は、あのとき言ったんだ。“迷惑かけてもいい。だから生きててくれ”って。……それが、唯一、千紗にちゃんと伝えられた言葉だった」
「……唯一?」
彼は、黙って夜の川を見つめた。
「その一週間後に……亡くなった」
沈黙が、ふたりの間をゆっくりと流れる。
「俺は、後悔してる。もっと言葉をかければよかったって。もっと抱きしめてやればよかったって……ずっと、思ってる」
言葉の端に、震えがあった。
それは、彼がずっと誰にも見せなかった“弱さ”だった。
私は、自分でも驚くくらい自然に、彼の手に触れた。
「……私、いていいのかな」
「……ああ」
「誰かに迷惑かけても、そばにいてくれる?」
「当たり前だろ。……俺は、栞里に迷惑かけてほしいんだ」
その言葉に、不思議と涙が出てこなかった。
ただ胸の奥がじんわりとあたたかくなって、世界の色が少しだけ変わった気がした。
「……なあ、栞里」
「……なに?」
「俺、お前のこと、もっと知りたい。嬉しいことも、嫌だったことも。全部、ちゃんと聞かせてほしい」
「……私も、神谷さんのこと、もっと知りたい。……そばにいたいって思ってる」
そう言って顔を上げたとき、ふいに彼と目が合った。
気づけば、顔がすぐそこにあって――
彼の手が、そっと私の頬に触れる。
「……キス、していい?」
私はうなずいた。
拒まなかった。怖くもなかった。
この人となら、心をあずけてもいいと思った。
触れるだけの優しいキスだった。
でも、それだけで、今までの孤独も痛みも、すべてが赦されたような気がした。
心に触れたその日から、私の世界は変わりはじめている。
もう一人じゃない。
誰かのそばにいてもいい。
そんな気持ちが、胸の奥に静かに芽吹き始めていた。