迷惑かけても、いいですか?
第五章:ただ、あなたに“笑ってほしい”だけだった
「ねぇ、神谷さんと、付き合ってるの?」
昼休み、給湯室で水を汲んでいた私に、咲良が唐突に問いかけてきた。
その声には笑いも怒りもなかった。ただ、冷えた静けさだけがあった。
私は、何も言えなかった。
「……やっぱりね。そういうことなんだ。優しくされて、期待して、寄りかかって……恋に落ちた」
「違う。私は――」
「違わない。ずっと見てたよ。あんたが誰にも心を開けなかったのも、神谷さんが近づいていったのも」
咲良は小さく笑った。
その目は、まるで何かに決別するように――寂しさをたたえていた。
「……ねえ、栞里ちゃん。私さ、ずっと神谷さんが好きだったの」
――え?
「最初はただ憧れだった。でも、少しずつ距離が近くなって……一緒に残業して、たまに笑い合って……それで“もしかして”って思ったんだよね。思いたくなるじゃん、普通」
咲良の手が、震えていた。
「でも、あの人は私を見てなかった。見てたのは、あんただった。……どうして? なんで、私じゃなかったの?」
「咲良さん……」
「栞里ちゃんってね、“守ってあげたくなる”の。すごく分かる。弱くて、儚くて、健気で。でもさ、私はそんなふうに見てもらったこと、一度もなかった」
それは、咲良がずっと心にしまい込んできた感情だった。
理解されない強さ。孤独の中で育ったプライド。
その全てが、私に向けられていた。
「ごめん……私、そんなつもりじゃ……」
「分かってるよ。悪いのは、私の方だって。でも、嫉妬って、コントロールできない。……人間、そんなに綺麗じゃない」
咲良は、言い終えると何も言わずに立ち去った。
私の胸の奥に、どす黒い罪悪感がじわりと広がっていった。
その数日後――
職場に、妙な空気が流れ始めた。
「……あの二人、付き合ってるらしいよ」
「マジで? 神谷さんって誰にでも優しいと思ってたけど……やっぱ特別扱いだったんだな」
「なんかもう、“介護恋愛”って感じ?」
耳に入る噂の一つ一つが、針のように胸に刺さった。
神谷さんと私が交際しているという話は、知らぬ間に歪んだ形で広まっていた。
その夜。
「……ごめん。私、やっぱり迷惑かけてるんだと思う」
職場の屋上で、私は神谷さんにそう言った。
「……またそれか」
「でも……職場って、迷惑かけるところじゃないじゃない。噂だって……私のせいで、あなたまで――」
「それ、俺の意思は無視?」
「……っ」
「俺は、栞里と一緒にいたいと思ってる。それは俺が決めたこと。誰かにとやかく言われる筋合いはない」
「でも、あなたの足を引っ張ってるのは事実で――」
「じゃあ、俺の心を踏みにじってもいいわけ?」
その言葉に、私は目を見開いた。
「俺は、あの日お前と川辺でキスしたとき、やっと“守れた”と思えたんだよ。……過去に助けられなかった妹の代わりにじゃない。目の前のお前を、ちゃんと支えたいって」
神谷さんの目が、揺れていた。
怒っているのではない。悲しんでいた。
私の言葉が、彼を傷つけていた。
「……ただ、お前に笑ってほしいだけなんだよ」
静かな声が、夜風に消えた。
「それだけで、俺は救われるんだ」
私は唇を噛み締めた。
自分がどれだけ臆病だったか、自分がどれだけ“独りになる”ことばかり考えていたか――今さら気づいた。
「……怖かった。幸せになるのが」
ぽつりと、私は本音をこぼした。
「また、誰かを失うんじゃないかって。誰かを悲しませるんじゃないかって。……そう思うと、誰も好きにならない方がいいって……」
神谷さんは、そっと私を抱き寄せた。
「……俺は消えない。逃げない。お前がどれだけ弱音吐いても、何もできない日があっても……そばにいるから」
その腕の中で、私はこらえきれずに涙をこぼした。
あたたかくて、優しくて――そして、確かなぬくもりだった。