恋は襟を正してから
1.襟を正す名
サービスの概要資料に、ノベルティ。契約書の控えと、筆記用具。指差し確認までしたのだから、今日こそは完璧。まだ作成途中の見積書をなごりおしくもシャットダウンで伏せ、大きな鞄を抱えたら、あとは主任の出発準備を待つのみ。
なのに、聞こえてくるのはいつだって────
「──芦尾!チャージはしておいたか」
「……あっ」
「はぁ……またか!お前が改札で引っかかる度、俺がどれだけ時間を無駄にしてきたと思ってるんだ。遠方の得意先だと分かってるのだから、事前にやっておけと言ってるだろ!」
「すみません……」
社内の全員の目に、私のみじめな姿が映る。何もフロア中に響き渡る大声で言わなくてもいいじゃない。まだ椅子から立ち上がってもいないというのに、私の営業同行は、今日も叱責から始まった。
***
昼下がりのオフィス街を、生ぬるい風が吹き抜けていく。じめっとした空気が足元から立ち上るなか、主任はスーツを涼しげに着こなす。
七三分けの髪はトップを軽く立ち上げるように流して、誠実さを演出している。凛とした横顔も、もしお客さんが男性の管理職ばかりじゃなかったら、もっと派手に売上を伸ばしていたに違いない。
そんな主任は早足で歩きながら仕事の話をする。私は一語一句を聞き逃すまいと、半ば小走りで背中を追った。
「今日はな、門戸坂のビルに新しく入ったところにも飛び込み行こうかと思ってる」
「え?今日は3件だけって」
「俺のやり方に文句があるのか?」
ぎろりと睨まれる。
「い、いえ……ただ、私も自分の仕事を溜めてしまっているので」
「会社に戻ってからいくらでもやればいい。芦尾はまだ新人なんだから、事務やるにもまずは現場を見て勉強するんだな。最後までついてこい!」
またこれだ。残業の強要。ホワイト企業という話はなんだったの?
いや、確かに給料は悪くない。うちの部署以外は雰囲気もいいし、休みもとりやすい。オフィスは綺麗で、すれ違う役員に横柄な態度を取られることもない。そんな環境に惹かれて転職してきた。前にいた職場は、それはもう立派なブラック会社だったから。
だから、盲点だった。まさかここが「漆黒」と噂される第一営業所で、その原因がここの主任であり、私の指導係──獄谷さんにあるだなんて。
その高圧的な態度は、他部署へも及ぶ。先日も同じ本社フロア、カスタマーサポートの若手メンバーに向かって、受けたクレームについて怒鳴りはしないまでも、容赦なく追及していた。周りを怯えさせる彼は、成績は良かれど誰をも近寄らせない孤高の営業マンだ。
私はこの人が言うほど仕事ができないというわけではないはずだ。入社してまだ2ヵ月も経っていないのに日常業務はあっという間に覚えたし、愛想の良さから得意先のウケもいい。彼ほど情熱的に仕事に打ち込んでいるわけではないけど、真面目に働き、時に誰にでもしうるミスもする、いわゆる普通の部類に入るOLだと思っている。
それなのに、私は信じられないほど叱られる。だって、私は営業ではなく、営業"事務"なのだ。私にも作らないといけない書類や、電話対応という立派な担当業務があるのに、主任は営業としても私を育てようとしている。言いたい事は分かるけど、私を商談の場に狩り出す頻度はもう少し、下げて欲しい。
だからって、転職を後悔しているかと言われれば、そんなことはない。前の職場で培ったパワハラ耐性が、私をタフにさせた。怯えすぎても相手をつけ上がらせるだけ、逆効果ということはよく分かっている。
そう、今度は潰れるわけにはいかないのだ。そうして私の主任へのささやかな反抗心は、こんな形で表に出るようになった。
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