溺愛
第二章
彼が帰宅してから行うルーティンは決まっている。
まず彼の仕事用として使用されている部屋に向かって、出勤様に使っている愛用の鞄を置く。
その後ジャケットだけを脱いで洗面所で顔と手を洗って――そこまで終わらせると、またリビングへ戻って来る。
私達の会話が再開されるのはそれからだ。
青のカッターシャツと紺色のパンツという状態で冷蔵庫へ向かう彼――周防俊を見て今日あった事を一つ思い出し、私は声をかける。
「あ、そうそう、今日宅配便の人にあげたから。飲み物。――良かったよね?」
今更言ってもどうしようもない事なのだが、私は告げる。
「飲み物?」
私の言葉の意味を探る問いを投げながら、彼は冷蔵庫を開けて物色し始めた。
いつもと同じルーティンなら、飲み物を探しているはずだ。
最近はよく麦茶を飲んでいるので、今日もそれにするかもしれない。
「そう、ほらあれ。二か月くらい前に貰ってきてたフルーツジュース」
「ああ、あれ」
予想通り、あまり気にしていない風にして彼は言った。
こういう対応になると察しがついていたから、こちらも断りなくそれが出来たのだ。
「そういえば、結構そのままだったよな、この中で」
冷蔵庫の中を見ながら彼は呟く。
「ずっと置いてても何だからと思って」
彼が会社関係の付き合いで貰って来たというジュースは、嫌いとは言わないまでも残念ながら私も彼も日常的に口にする飲み物ではなく。
消費する心づもりはあっていつでも飲めるように冷やしてはいたものの、一向に減らないまま冷蔵庫の奥にひっそりと身を潜めていた。
とはいえ一応彼が貰ってきた物だったし、一応報告だけはしなければならないだろう。
「そんなに気を使わなくても。いいよ適当に飲んでも上げても。ここの家の物だし」
彼はそう言って冷蔵庫の片隅からグレープジュースを手に取った。
話題に出された事で消費具合が気になって、それで今日は仕事帰りの喉を潤す事にしたらしい。
「飲む?」
自分の分を取るついでにしてくれた彼の質問に、
「紅茶淹れてるから。いい」
と、テーブルに置いていたカップを指して私は答えた。
彼は冷蔵庫を閉めて更に訊いて来る。
「宅急便屋さんに上げたって、何? どういう事?」
答えはその言葉のままの意味になるけれど、これもコミュニケーションの中の会話だ。
「ネットで頼んだのが今日届いて。その時すごい宅配業者の人、びしゃびしゃで」
ちょうどゲリラ豪雨の時間帯に当たって、濡れてしまったのだろう。もしくは汗か。
どちらにしても大変そうだったのでそのまま荷物を受け取って帰ってもらうだけでは少しだけ気の毒だなと思い、同時にたまたまこのジュースの事を思い出したので、どうせならと渡した。
無駄にここに長い間息を潜めた状態でいるより、その方が色んな方面でいいだろう、という判断で。
「ああ、さっき突然降り出したからな。業者は大変だよな」
良かったんじゃない?と付け足して彼は私の行動を許諾してくれた。
人の気持ちに寄り添うなんて高尚な事とまではいかなくとも、自分の出来る範囲で出来るちょっとした優しさ位なら持ってもいいだろう、というこの考えは私達の共通認識だ。
「何注文したの?」
彼が手に収まるサイズの缶をプルタブを開けて、中身を体内に流し込む。
喉仏が上下に動くのが男らしく、艶っぽい。
袖をまくって見えている腕もとてもセクシーだ。
「サプリ。いつものやつ」
どちらかと言えば小食な方なので、栄養素の補給に定期的に利用しているものだ。愛用品と言っていい。
「ちゃんと食事とった方が良いんじゃない?」
口さがない人間だったら、そんな物に頼るよりも、なんて余計な台詞がついてきそうなものだが、彼に限ってはそんな事は絶対ない。
「暑くて食べる気がしない」
口をついて出たその言葉は半分本音で、半分は会話を打ち切りたかった為に言ったものだった。
これ以上この会話を続けていても、私にとってはいい方向に進展しそうになかったから。
――小言はごめんだ。もっとも、彼が必要以上に私に行動を制限して来ないのは分っているけれど。
頭の中でそんな考えを巡らせていると、やっぱり彼はしょうがないな、といった様子で唇を持ち上げて一つ息をついただけだった。
攻撃しようとすれば出来ただろうけれど、それ以上の追及を止めてくれる。
それは彼の優しさ以外の何物でもない。
「最低限は食べてるから」
私もその気持ちに応えるべく、寄り添った言葉をかける。
結婚生活はお互いの思いやり、歩み寄りが不可欠。
「体調だけは崩さない様に気をつけろよ。 ――ていうか」
冷蔵庫の前に立ったまま、宅配便の乗っていたソファーの方を指差した。
正確には、その横に置いてあった荷物を、だ。
「何かそれだけじゃない荷物があるみたいだけど。あれは何?」
そこには彼が指摘した通り、宅急便で届いた荷物の他に一つ紙袋が置いてあった。
――目ざとい。いや、目ざといと言う程に隠せてもいなかったけれど。
ネットに集中していて、片付けるのを忘れていた。
ちょっとだけミスったなと一瞬だけ思ったけれど、でもそれだけで、まあいいかと打ち明けることにする。
「バッグ。今日ちょっと外に出てきて、いい感じの見つけたから買って来たの」
ちょうど今使っている物が年季が入って来てて、新しいものが欲しいと思っていた頃合いだったから、と説明した。
「まあ確かに結構長期間使っていたよね、今の」
「そうそう」
自分の行為の正当性を示すべく、何とかいい方向に話しが進むように誘導の相槌を打つ。
「――ちなみに、値段は?」
でもどうやらそれは成功しなかったようだ。
今回は追及の手を緩めず、一番痛い所を突っ込んでくる。
「……」
「とりあえずゼロの数だけ教えて」
沈黙をした私に、彼は少しだけ質問内容を少しだけぼかしてくれる。
妥協をしてくれているのは分かる。
「六個は行ってない?」
答え易くなった質問に、こくり、と私は頷く。
本当に彼はこうして私を負かすのが上手い。
「一応、それなりの値段するものは買う時相談してって言ったと思うけど?」
グレープジュースを飲み干して、彼は空き缶をごみ箱に捨てた。
ゆっくりとこちらへ歩みを進めて来る。
「ああ、ごめん。仕事中に電話かけるのもどうかと思って」
そう口にしてはみたものの、常習犯である私が実の所そう悪いと思ってないのはもうすでにバレているだろう。
「メッセージでも良かったでしょ」
呆れたようにまた一つ息をついて彼は笑った。
私の傍らまで来ると、すっと腕を伸ばして来る。
そのまま手を私の頭の上にのせて、そしてくしゃりと一撫でした。
もちろん褒めてくれてはいなくて、これも彼の帰宅後ルーティーンの一つだ。
結婚したばかりの頃はキスをして来ていたけれど、それが恥ずかしくて私が拒否をして――話し合いの末、こういう形に落ち着いた。
「今回だけ許す。次からちゃんと報告する事。分かった?」
駄目押しにちゃんと釘を刺してくる。
「……分かった」
そう言いつつも、報告なんて意味がないだろう、と頭のどこかの部分で冷静に思ってしまう自分がいる。
だって報告したとしても同じ事で彼はどうせきっとイエスしか言わない。
それに今回だけなんて言うのも大嘘だ。
もし報告しなかったとしてもまた同じ台詞で、同じように何度も終わらせてくれる。
まず彼の仕事用として使用されている部屋に向かって、出勤様に使っている愛用の鞄を置く。
その後ジャケットだけを脱いで洗面所で顔と手を洗って――そこまで終わらせると、またリビングへ戻って来る。
私達の会話が再開されるのはそれからだ。
青のカッターシャツと紺色のパンツという状態で冷蔵庫へ向かう彼――周防俊を見て今日あった事を一つ思い出し、私は声をかける。
「あ、そうそう、今日宅配便の人にあげたから。飲み物。――良かったよね?」
今更言ってもどうしようもない事なのだが、私は告げる。
「飲み物?」
私の言葉の意味を探る問いを投げながら、彼は冷蔵庫を開けて物色し始めた。
いつもと同じルーティンなら、飲み物を探しているはずだ。
最近はよく麦茶を飲んでいるので、今日もそれにするかもしれない。
「そう、ほらあれ。二か月くらい前に貰ってきてたフルーツジュース」
「ああ、あれ」
予想通り、あまり気にしていない風にして彼は言った。
こういう対応になると察しがついていたから、こちらも断りなくそれが出来たのだ。
「そういえば、結構そのままだったよな、この中で」
冷蔵庫の中を見ながら彼は呟く。
「ずっと置いてても何だからと思って」
彼が会社関係の付き合いで貰って来たというジュースは、嫌いとは言わないまでも残念ながら私も彼も日常的に口にする飲み物ではなく。
消費する心づもりはあっていつでも飲めるように冷やしてはいたものの、一向に減らないまま冷蔵庫の奥にひっそりと身を潜めていた。
とはいえ一応彼が貰ってきた物だったし、一応報告だけはしなければならないだろう。
「そんなに気を使わなくても。いいよ適当に飲んでも上げても。ここの家の物だし」
彼はそう言って冷蔵庫の片隅からグレープジュースを手に取った。
話題に出された事で消費具合が気になって、それで今日は仕事帰りの喉を潤す事にしたらしい。
「飲む?」
自分の分を取るついでにしてくれた彼の質問に、
「紅茶淹れてるから。いい」
と、テーブルに置いていたカップを指して私は答えた。
彼は冷蔵庫を閉めて更に訊いて来る。
「宅急便屋さんに上げたって、何? どういう事?」
答えはその言葉のままの意味になるけれど、これもコミュニケーションの中の会話だ。
「ネットで頼んだのが今日届いて。その時すごい宅配業者の人、びしゃびしゃで」
ちょうどゲリラ豪雨の時間帯に当たって、濡れてしまったのだろう。もしくは汗か。
どちらにしても大変そうだったのでそのまま荷物を受け取って帰ってもらうだけでは少しだけ気の毒だなと思い、同時にたまたまこのジュースの事を思い出したので、どうせならと渡した。
無駄にここに長い間息を潜めた状態でいるより、その方が色んな方面でいいだろう、という判断で。
「ああ、さっき突然降り出したからな。業者は大変だよな」
良かったんじゃない?と付け足して彼は私の行動を許諾してくれた。
人の気持ちに寄り添うなんて高尚な事とまではいかなくとも、自分の出来る範囲で出来るちょっとした優しさ位なら持ってもいいだろう、というこの考えは私達の共通認識だ。
「何注文したの?」
彼が手に収まるサイズの缶をプルタブを開けて、中身を体内に流し込む。
喉仏が上下に動くのが男らしく、艶っぽい。
袖をまくって見えている腕もとてもセクシーだ。
「サプリ。いつものやつ」
どちらかと言えば小食な方なので、栄養素の補給に定期的に利用しているものだ。愛用品と言っていい。
「ちゃんと食事とった方が良いんじゃない?」
口さがない人間だったら、そんな物に頼るよりも、なんて余計な台詞がついてきそうなものだが、彼に限ってはそんな事は絶対ない。
「暑くて食べる気がしない」
口をついて出たその言葉は半分本音で、半分は会話を打ち切りたかった為に言ったものだった。
これ以上この会話を続けていても、私にとってはいい方向に進展しそうになかったから。
――小言はごめんだ。もっとも、彼が必要以上に私に行動を制限して来ないのは分っているけれど。
頭の中でそんな考えを巡らせていると、やっぱり彼はしょうがないな、といった様子で唇を持ち上げて一つ息をついただけだった。
攻撃しようとすれば出来ただろうけれど、それ以上の追及を止めてくれる。
それは彼の優しさ以外の何物でもない。
「最低限は食べてるから」
私もその気持ちに応えるべく、寄り添った言葉をかける。
結婚生活はお互いの思いやり、歩み寄りが不可欠。
「体調だけは崩さない様に気をつけろよ。 ――ていうか」
冷蔵庫の前に立ったまま、宅配便の乗っていたソファーの方を指差した。
正確には、その横に置いてあった荷物を、だ。
「何かそれだけじゃない荷物があるみたいだけど。あれは何?」
そこには彼が指摘した通り、宅急便で届いた荷物の他に一つ紙袋が置いてあった。
――目ざとい。いや、目ざといと言う程に隠せてもいなかったけれど。
ネットに集中していて、片付けるのを忘れていた。
ちょっとだけミスったなと一瞬だけ思ったけれど、でもそれだけで、まあいいかと打ち明けることにする。
「バッグ。今日ちょっと外に出てきて、いい感じの見つけたから買って来たの」
ちょうど今使っている物が年季が入って来てて、新しいものが欲しいと思っていた頃合いだったから、と説明した。
「まあ確かに結構長期間使っていたよね、今の」
「そうそう」
自分の行為の正当性を示すべく、何とかいい方向に話しが進むように誘導の相槌を打つ。
「――ちなみに、値段は?」
でもどうやらそれは成功しなかったようだ。
今回は追及の手を緩めず、一番痛い所を突っ込んでくる。
「……」
「とりあえずゼロの数だけ教えて」
沈黙をした私に、彼は少しだけ質問内容を少しだけぼかしてくれる。
妥協をしてくれているのは分かる。
「六個は行ってない?」
答え易くなった質問に、こくり、と私は頷く。
本当に彼はこうして私を負かすのが上手い。
「一応、それなりの値段するものは買う時相談してって言ったと思うけど?」
グレープジュースを飲み干して、彼は空き缶をごみ箱に捨てた。
ゆっくりとこちらへ歩みを進めて来る。
「ああ、ごめん。仕事中に電話かけるのもどうかと思って」
そう口にしてはみたものの、常習犯である私が実の所そう悪いと思ってないのはもうすでにバレているだろう。
「メッセージでも良かったでしょ」
呆れたようにまた一つ息をついて彼は笑った。
私の傍らまで来ると、すっと腕を伸ばして来る。
そのまま手を私の頭の上にのせて、そしてくしゃりと一撫でした。
もちろん褒めてくれてはいなくて、これも彼の帰宅後ルーティーンの一つだ。
結婚したばかりの頃はキスをして来ていたけれど、それが恥ずかしくて私が拒否をして――話し合いの末、こういう形に落ち着いた。
「今回だけ許す。次からちゃんと報告する事。分かった?」
駄目押しにちゃんと釘を刺してくる。
「……分かった」
そう言いつつも、報告なんて意味がないだろう、と頭のどこかの部分で冷静に思ってしまう自分がいる。
だって報告したとしても同じ事で彼はどうせきっとイエスしか言わない。
それに今回だけなんて言うのも大嘘だ。
もし報告しなかったとしてもまた同じ台詞で、同じように何度も終わらせてくれる。