皇子を変えた懐妊姫の物語

1 異母姉妹

 妹が皇子の元に輿入れすることが決まったとき、シーナは風呂場の湯垢を落としていた。
「マユリさまのお輿入れが決まったそうよ!」
「めでたいわぁ。あたしたちもおこぼれに預かれるわね」
 使用人たちは喜色もあらわにおしゃべりを始める。シーナも少しだけ笑ったものの、黙々と掃除を再開した。
 妹たちが湯に入るまでに浴槽が汚れていたら、罰を受けるのはシーナだ。
 娼婦の母から生まれたシーナは使用人より立場が低く、酷く叩かれて納屋に追いやられる夜を過ごしていた。
「つ……」
 シーナが浴槽の奥へと手を伸ばしたとき、昨日木筒で叩かれた背中の傷が痛んだ。体が滑って、浴槽の中に滑り落ちてしまう。
「こら! 何してるの。浴槽が汚れるでしょう!」
「お前みたいな娼婦が浴槽を使ったなんて聞いたら、あたしたちも罰を受けるだろ!」
「ご、ごめんなさい……」
 シーナは乱暴に浴槽から引っ張り出されて、顔を伏せて謝った。
 使用人たちはあざけるようにシーナの肩を草履で踏みながら言う。
「奥様がほんの一月早く身ごもったなら、あんたなんて生まれなかったんだからね」
 子に恵まれなかった当主が娼婦を買って得た子ども。それがシーナだった。
 けれど使用人たちの言う通り、シーナの母の懐妊がわかって一月後に、正妻の懐妊もわかった。それで生まれたのが妹のマユリだ。
 シーナを出産したとき、母は亡くなってしまった。それを憐れんだ当主がシーナを引き取ってくれたものの、マユリとはとても姉妹のようには扱われてこなかった。
(ごめんね、お母さん。私を身ごもらなければ、きっと今もどこかで暮らしていたのにね……)
 娼婦の子と蔑まれ、虐待されて育ったシーナは、極端に自己肯定の低い子どもだった。マユリとは元々立場が違うと、彼女をうらやむ気持ちさえなかった。それより、自分さえいなければ母が幸せだっただろうと思う。
 シーナには心に決めていることがある。友だちなどいない環境だったけど、あるとき一度だけ、マユリに言ったことがある。
(私は一生、子どもを産みたくないの。不幸を連鎖させてはだめだもの)
 そんなシーナが十八になる年、マユリが正妃として皇子に輿入れすることが決まった。
 喜び湧き立つ家で、シーナに命令が下されたのは夕刻のことだった。
「シーナ、マユリ様がお呼びよ」
「……はい」
 この家で奥方以上にシーナを嫌い、軽蔑しているマユリがシーナを呼ぶときは、何かの罰を加えるときだ。マユリは少女の残酷さで、シーナを心身ともに痛めつけるのが何より好きだった。
 けれどシーナには逆らうすべも、味方もいない。反抗する気持ちもとっくの昔に折られていた。シーナは重い足を引きずって、母屋にあるマユリの部屋に向かった。
 国の名だたる絵師が筆を走らせた屏風と調度に囲まれた、貴人にふさわしい一室。そこがマユリの居室だった。
 彼女は黒百合の描かれた脇息にもたれて、眉をひそめて言った。
「遅いわ」
「申し訳ありません」
 マユリは鮮やかな黒髪と濡れたような瞳を持つ、妖とした美貌の少女だった。この国で高貴の者しか身に着けられない黒を好み、自分の写し絵にも黒百合を描かせるのを望んだ。
 ただその部屋に座していたのはマユリだけではなかった。
「ほう、これは……メナによく似ている」
 彼は老年に差し掛かる年の男で、濁った青のような衣をまとっていた。衣は純粋な青に近いほど皇家に近く、ごてごてと刺繍のほどこした彼の衣は、いささか毒々しい色に映った。
 彼が口にしたメナという名前に、シーナは反射的に息を呑んだ。それは母の名で、この家では口に出すのさえ忌み嫌われていた。
「白い髪、どれ、目の色は……灰色に近いのか」
「ねずみと同じ色よ」
 シーナは、マユリの侮蔑の言葉には慣れている。けれど男がにやにやと笑いながら検分するようにシーナを見る目が恐ろしかった。
「……くく。マユリ様、喜んで申し出をお受けしましょう」
 男はざわつくように笑って、シーナの顎をつかんだ。
 シーナはぞっと肌が粟立って、振り払おうとする。けれどマユリがひたとシーナを見据えて、身動きをさせなかった。
 シーナの顎から頬に手を滑らせる男に、シーナは震えながら言葉を発する。
「何の話ですか、マユリさま……申し出とは」
「輿入れが決まって、私はとても気分がいいの。だから幸せのおすそ分けよ。……お前、子どもをたくさん産みたかったのでしょう?」
 シーナは真逆の願望を口にされて、首を横に振る。マユリは赤い唇に笑みをたたえて言った。
「そちらは神官職にあるジアザ様。聞いたことはあるでしょう? ……「采園」の管理をされているの」
 シーナはごくんと息を呑む。市井で噂されている皇宮の秘密の場所、それが「采園」。官吏たちの娼館……欲望の園だ。
 真っ青になったシーナに、マユリは楽しむように告げた。
「娼婦の子にふさわしい居場所でしょう。誰とも知れない男たちの慰みものになって……ねずみのようにたくさん、子どもを産むといいわ」
 マユリの言葉が、シーナの心の傷にさくりと刺さった音が聞こえた。
< 1 / 2 >

この作品をシェア

pagetop