皇子を変えた懐妊姫の物語

2 まじない

 マユリの輿入れの裏で、シーナの采園入りは密やかに決まってしまった。
 ただマユリの一存だけで済まなかったのは、二人の実家である那智家の家名のためだった。
「え……風呂に入れるのですか、シーナを」
 侍女頭が不本意そうに言ったのもそのはずで、シーナは一度もこの家の風呂を使わせてもらったことがなかった。冬であってもいつも外の井戸の脇で、冷たい水で絞った布で体を拭いてきた。
 家老は難しい顔で侍女頭をたしなめる。
「仕方なかろう。表向きはマユリ様の侍女として皇宮に入るのだ」
「そんなの。実は娼婦を入れるだけじゃありませんか」
「采園などというものは無いことになっているからな」
 そうしてシーナは、今まで虐められてきた侍女たちに体を洗われることになった。
「どうしてあたしたちがこんなこと」
「ま、官吏たちは鬼の使いだっていうからね。きっと夜もいたぶってくれるだろうよ」
「こんながさがさの肌で、気色悪く喜ぶ男なんているもんかね」
 ぶつぶつと文句を言われながら、時々きつく肌をつねられた。そうでなくてもシーナの体はマユリたちの虐待で傷だらけで、侍女たちに口汚く笑われた。
 シーナはそれに抵抗するのはやめていた。体の痛みはまだ感じるが、もう心はずっと閉ざしていて、憂いも悲しみも表には出さなかった。
 迎えた輿入れの前日、マユリを乗せた籠は皇宮の西に一泊した。この国の吉凶を決める星占術で、西からの輿入れが吉と出たからだった。
 そこはマユリたちの那智家の先代に仕えていた、老夫婦の屋敷だった。ただ那智家に比べれば使用人も数人、家も母屋だけの小さなもので、これから皇宮に入るというマユリには許しがたい粗末さだったらしい。
「マユリ様、ようこそおいでくださいました」
「ごゆっくり……」
 老夫婦は門までマユリを出迎えたが、マユリは顔も見せずに籠を進めるように命じた。危うく妻が押しやられて転びそうになり、側を歩いていたシーナはとっさに抱きとめる。
「大丈夫ですか。お怪我は?」
「ご、ご無礼をお許しください」
 老夫婦はマユリの怒りを買ったのではと怯えた。粗相のあった使用人に容赦なく罰を与えるマユリの冷酷さは、彼らもよく知っていた。
 地面に手をついた老夫婦に一瞥をくれることなく、マユリは屋敷に入って行った。シーナはまだ気がかりそうに二人を見ていて、他の侍女たちに叱られる。
 仕方なく、振り向きながらシーナは母屋に足を向けた。
 その夜、シーナは真夜中に目を覚ました。そうしたら寝付けなくて、そっと部屋を出て庭に下りる。
「星が……」
 零れ落ちそうな満天の星空が、眼前に広がっていた。
 明日からは采園に入って、見も知らぬ人たちに欲望をぶつけられる。だからこうして空を仰ぐのも、もしかしたら最後になるのかもしれない。
 でも今日できることは、今日しよう。そう決めて、シーナは庭を横切った。
 シーナは庭木から手のひらほどの葉を一枚手に取ると、それを口にくわえて息を吐く。
 ふぅっと細い息が光に変わって、シーナの鼻に青い蝶が止まった。それを手のひらに移して、シーナは微笑む。
「星々の幸が、あの夫婦に注ぐよう」
 そう言って、シーナは青い蝶を夜空に放した。
 遠い遠い空に蝶が羽ばたいていく。それに思いも寄せて、シーナはいつまでもそれを見守っていた。
 かさりと物音が聞こえて振り向くと、一人の青年が立っていた。
 質素な紺一色の着物姿だが、使用人にしては威圧感があった。暗がりの中で表情はよく見えないが、彼が青い蝶の飛んだ方を見ているのはわかった。
「古いまじないだな」
 ぽつりと青年がつぶやいて、シーナは答える。
「はい。先代のご当主様が教えてくださいました」
「きれいだ」
 青年は飾り気なく言祝いで沈黙した。
 ふとその目がシーナを見ていることに気づいて、シーナは首を傾げる。
「明日、また」
 姿も定かでない青年はそれだけ告げると、踵を返して暗がりの中に消えた。
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