恋はもっと、すぐそばに

第1章 仮面の下の本当の私

金曜日の夕方、都心のオフィスビル十二階。橘美咲(たちばなみさき)は薄暗くなった編集部のデスクで、最後の校正作業に取り組んでいた。パソコンのモニターには「今週の恋愛運UPコーデ特集」というタイトルが踊っている。美咲は小さくため息をつき、無意識に眉間を押さえた。

「お疲れ様でした!」
「今日も遅いね、美咲ちゃん」

同僚たちの声が響く中、美咲は一人だけ残業を続けていた。彼女の周りには色とりどりのファッション雑誌が積み重なり、付箋だらけの企画書が散らばっている。

美咲は二十八歳。この女性向け雑誌の編集部で働いて五年になる。ベージュのカーディガンに紺のスカート、控えめなメイク。一見すると「品のある女性」を絵に描いたような外見だが、それは彼女が意図的に作り上げた制服のようなものだった。

デスクの引き出しを開けると、そこには週刊経済誌が隠してある。美咲は辺りを見回してから、そっと表紙を眺めた。「新興国経済の地政学的影響」という見出しに目が輝く。しかし足音が近づくと、慌てて引き出しを閉じてしまった。

「美咲ちゃん、まだいたの?」

振り返ると、先輩の田島が心配そうな顔をしていた。

「はい、もう少しで終わります」

美咲は作り笑顔を浮かべた。田島は首を振りながら言った。

「あのね、女子は難しいことより、可愛いものの方がいいのよ。そういう記事の方が読者も喜ぶし」

美咲の胸に小さな棘が刺さったような感覚があったが、「そうですね」と答えるしかなかった。

田島が去った後、美咲はスマホを取り出した。ニュースアプリを開くと、国際政治や社会問題のヘッドラインが並んでいる。指が自然とそれらの記事に向かうが、途中で止まってしまう。代わりにファッション系のアプリを開いたが、心は全く躍らない。

時計を見ると六時を過ぎている。美咲は資料を片付け、重いため息とともに立ち上がった。

エレベーターを降り、ビルの外に出ると、夕暮れの街が広がっていた。美咲はいつものように駅前の大型書店の前で足を止めた。

ショーウィンドウには新刊の恋愛小説が並んでいる。その奥に見える哲学書コーナーに、美咲の視線は自然と向かった。カントの「純粋理性批判」、サルトルの「存在と無」。大学時代に夢中で読んだ本たちが、まるで旧友のように微笑みかけているような気がした。

美咲は一歩店内に向かいかけて、立ち止まった。もし同僚に見られたら何と言われるだろう。「美咲ちゃんって、やっぱり変わってるよね」「女性らしくないっていうか」。そんな声が聞こえてくるような気がして、結局足を向けることができなかった。

代わりに女性誌コーナーに向かい、手に取った雑誌をぱらぱらとめくった。恋愛テクニック、メイク術、占い。「こういうのを読むべきなのかな」と思いながらも、心の奥では満たされない何かがうずいていた。

自分のアパートに着くと、美咲は玄関の鏡に映る自分を見つめた。今日も一日、「品のある女性」を演じ続けた。でも鏡の向こうの自分の目は、どこか疲れて見えた。

リビングの本棚には、大学時代に集めた哲学書や社会学の専門書がずらりと並んでいる。でもそれらは今や、まるで封印された宝物のようだった。代わりに最近購入した女性誌やライフスタイル本が手前に置かれている。

美咲はソファに座り、今日編集した記事のゲラを見返した。「恋愛運を上げるピンクコーデ」「男性受けする清楚メイク」。どれも読者には好評だろうが、書いている本人の心は全く躍らない。

「私って、本当はどう生きたいんだろう」

独り言のようにつぶやいた。窓の外では都市の明かりが瞬いている。

美咲は本棚から一冊の哲学書を取り出しかけて、やめた。代わりに今日買った女性誌を開き、「今月の運勢」のページを眺めた。「あなたの運勢は上昇中。新しい出会いが待っています」。

「新しい出会い、か」

美咲は雑誌を閉じて、天井を見上げた。でも彼女が本当に求めているのは、恋愛相手ではなく、自分の本当の気持ちを理解してくれる誰かだった。知的な話ができて、深い議論を交わせる相手。そんな人に出会えたら、どれほど素晴らしいだろう。

しかし現実は厳しい。職場では「女性らしさ」が求められ、知的好奇心を示すことは歓迎されない。美咲は長い間、本当の自分を押し殺して生きてきた。

時計が十時を指している。美咲は立ち上がり、明日の準備を始めた。また同じような一日が始まる。恋愛記事を書き、軽やかな話題で同僚たちと談笑し、本当の自分は心の奥底にしまい込んで。

でも美咲は知らなかった。運命が、思いがけない形で彼女の前に現れようとしていることを。そしてその出会いが、彼女の人生を根底から変えることになるということを。

美咲は窓辺に立ち、夜景を眺めながら思った。どこかに、本当の自分を受け入れてくれる世界があるのだろうか。知性を恥じることなく、深く考えることを喜びとして生きられる場所が。

「きっと、どこかにあるはず」

小さな希望を胸に、美咲は眠りについた。明日もまた、仮面をかぶった一日が始まる。でも心の奥では、何かが静かに動き始めていた。変化への、小さくて確かな予感が。
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