恋はもっと、すぐそばに

第2章 砕かれた翼

月曜日の朝、編集部の会議室には重苦しい空気が漂っていた。橘美咲は自分の席で、A4用紙に印刷された企画書を握りしめている。「現代女性の社会進出における心理的障壁」――週末をかけて練り上げた渾身の企画だった。

「それでは、美咲ちゃんの企画から聞こうか」

編集長の声に、美咲は背筋を伸ばした。四十代後半の男性で、今朝はどこか機嫌が悪そうに見える。

「はい」美咲は立ち上がり、企画書を配布した。「今回は、働く女性の深層心理にフォーカスした特集を提案させていただきます」

会議室に資料をめくる音が響く。美咲は深呼吸をして説明を始めた。

「データによると、女性の社会進出は進んでいるものの、内面的には多くの葛藤を抱えています。特に、知的能力を発揮することへの社会的プレッシャーや――」

「美咲ちゃん」

編集長の声が、美咲の言葉を遮った。彼の眉間には深いしわが刻まれている。

「ちょっと待って。これじゃあ硬すぎるよ。読者が求めてるのは、こういう小難しい話じゃないんだ」

企画書をテーブルに置く音が、会議室に響いた。その音が、美咲の心に鈍い痛みを与える。

「でも、編集長。女性読者の中にも、こうした深いテーマに関心を持つ方は……」

「美咲ちゃん」編集長の声に、苛立ちの色が混じった。「君はいつもこうだね。女性らしい感性がないんじゃない?」

その瞬間、美咲の体が凍りついた。血の気が引いていくのを感じる。周りの同僚たちが、一斉に美咲を見つめているのが分かった。誰も彼女を擁護しようとしない。

「もっと軽やかに、恋愛とファッション。それが君の役割でしょ」

編集長の言葉が、一つひとつ美咲の胸に突き刺さった。彼女が週末をかけて築き上げた思考の城が、音を立てて崩れ落ちていく。

「君の書く記事はいつも理屈っぽくて、読者には響かない。もっと感情に訴えるような、女性が共感できる内容じゃないと」

美咲は企画書を見つめた。自分の文字で埋められたページが、まるで意味のない記号の羅列に見える。

「はい」かすかな声で答えるのが精一杯だった。「分かりました」

会議が終わると、美咲はトイレに向かった。鏡に映る自分を見つめると、いつもの控えめな表情の奥で、何かが砕け散っているのが分かった。

「私って、本当にダメなのかな」

独り言が、タイルの壁に虚しく響いた。大学時代、哲学に夢中になっていた自分。深く考えることに喜びを感じていた自分。それらすべてが、今は「女性らしくない」という一言で否定されてしまった。

自分のデスクに戻ると、パソコンの画面には新しいファイルが開かれていた。「恋愛特集企画案」というタイトルが、カーソルの点滅とともに美咲を見つめている。

指がキーボードの上で止まった。本当はもっと深いことを書きたい。でも、それは許されない。女性らしくない。

「今月の恋愛運を上げる方法」

美咲は仕方なくタイトルを打ち始めた。一文字一文字が、まるで自分の魂を削っているように感じられた。砕かれた翼を抱えながら、それでも飛び続けなければならない鳥のように。
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