恋はもっと、すぐそばに

第12章 恋はもっと、すぐそばに

翌週の月曜日、美咲が編集部に足を踏み入れると、空気が明らかに変わっていた。同僚たちの視線に敬意が混じっている。

「美咲さん、おはようございます」

いつもなら「美咲ちゃん」と呼んでいた先輩が、敬語で挨拶をしてきた。

午前の企画会議で、編集長が立ち上がった。

「皆さん、美咲さんの記事の反響についてお話しします」

編集長の手には厚い束になった読者からの反響メールがあった。

「掲載から一週間で、過去最高の反響数を記録しました。特に30代女性読者層からの支持が圧倒的です」

会議室にざわめきが起こった。

「そこで美咲さんには、新しい企画を担当してもらいます」編集長は美咲を見つめた。「『現代女性のリアル』という新コーナーです。社会問題から人間関係まで、深い視点で現代女性の心を探る連載です」

美咲の心が躍った。これこそ、自分が本当に書きたかった内容だ。

「責任重大ですが……頑張らせていただきます」

拍手が会議室に響いた。美咲は深く頭を下げながら、胸の奥で小さな声が響くのを聞いた。『本当の自分で勝負できる』

田中が会議後に近づいてきた。

「美咲、君が道を切り開いてくれたんだ。おかげで僕たちも、もっと深い記事を書けるようになった」

美咲は微笑んだ。一人で戦っていたつもりだったが、実際には多くの人が同じことを望んでいたのだ。

土曜日の午後、新宿の小さな喫茶店。美咲は緊張と期待で胸を躍らせながら、約束の時間を待っていた。

拓也が現れた時、美咲の心が静かに高鳴った。平日の疲れた表情とは違う、リラックスした笑顔が素敵だった。

「お待たせしました」拓也は席に着くと、美咲の雑誌を見つけた。「それ、先週の……」

「はい。あなたにお礼を言いたくて、持参しました」美咲は雑誌を拓也に渡した。「あなたとの出会いがなければ、この記事は生まれませんでした」

拓也は改めて記事を読み返しながら、感嘆の表情を浮かべた。

「読み返すたびに新しい発見があります。特に『社会的自己』と『真の自己』の葛藤についての分析が秀逸ですね」

「実は……」美咲は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「あなたの言葉からヒントを得たんです」

拓也の目が驚きに見開かれた。

「実は僕も、あなたとの出会いで変わったことがあるんです」

美咲は興味深そうに身を乗り出した。

「研究室でも、あなたの記事が話題になっているんです」拓也は温かい笑顔を浮かべた。「理論だけでなく、現実に生きる人の体験に耳を傾ける大切さを、改めて教えてもらいました」

「そんな……私の記事が学術の場で？」

「ええ。『実践的な社会心理学』の良いサンプルだって、教授もおっしゃっていました」

「拓也さん、私、ずっと自分の考え方を隠して生きてきました。でもあなたに出会って、本当の自分でいる勇気をもらいました」

拓也の表情が優しく和らいだ。

「美咲さんの知性は隠すものじゃありません。それは……」拓也は少し頬を赤らめながら続けた。「僕がこんなにも惹かれてしまう、あなたの最大の魅力なんです」

美咲の頬が温かくなった。

「今度、僕の研究についても聞いてもらえませんか？」拓也の目に期待の光が宿った。「あなたになら、きっと新しい視点をもらえる気がするんです」

「もちろんです」美咲は嬉しそうに頷いた。「私も、もっとあなたのお話を聞きたいです」

二人の間に、新しい関係の始まりを告げる静かな空気が流れた。

日曜日の朝、美咲は鏡の前に立っていた。映っているのは、以前とは全く違う自分だった。

表情に自信があった。目に輝きがあった。そして何より、自分を受け入れている安らぎがあった。

「私は私のままでいいんだ」

美咲は小さくつぶやいた。この確信は、もう揺らぐことはないだろう。

本棚から哲学書を取り出す。以前は人目を気にして隠していた本を、今は堂々と手に取れる。

「知的であることは恥ずかしいことじゃない」

美咲は窓の外の青空を見上げた。

「恋愛と自己実現は両立できる」

これは単なる希望的観測ではなく、体験に基づいた確信だった。拓也は美咲の知性を愛してくれた。本当の自分を愛してくれる人が、確かに存在するのだ。

美咲は窓辺に座り、温かいコーヒーを飲みながら考えていた。

「恋はもっと、すぐそばに」

このフレーズが、今なら完全に理解できる。

「本当の恋は、自分らしくいられる時、すぐそばにあった」

美咲は深く頷いた。拓也との出会いがそれを証明してくれた。彼女が自分を偽っていた時期には、こんな出会いは起こらなかっただろう。

「自分を偽っていては、本当の恋は見つからない」

「真の愛は、ありのままの自分を受け入れてくれる人との間に生まれる」

拓也の言葉が心に響く。『あなたの知性こそが、僕があなたに惹かれる最大の理由』

「恋愛は『救い』じゃない。成長のきっかけなんだ」

美咲は微笑んだ。拓也と出会って恋に落ちたから成長したのではない。成長しようと決意した自分だったからこそ、拓也との素晴らしい恋愛が始まったのだ。

三ヶ月後の金曜日夕方。美咲と拓也は、すっかり恒例となった電車での対話を楽しんでいた。

「今度の連載記事、読ませてもらいました」拓也は美咲の最新記事を指差した。「毎回勉強になります」

「ありがとうございます」美咲は嬉しそうに微笑んだ。「読者の反応も良くて、編集長も『美咲らしい記事』って言ってくれるようになったんです」

拓也は感慨深そうに頷いた。

「『美咲らしい』……いい響きですね」

「以前は『女性らしくない』と言われていたのに」美咲は軽やかに笑った。「今は『美咲らしい』が最高の褒め言葉なんです」

「そうあるべきです」拓也の目が優しく細められた。「個性こそが最大の魅力なんですから」

「あなたと話していると、いつも新しい発見がある。こんなに刺激的で、安らげる時間は他にありません」

夕日が車窓を黄金色に染めている。美咲と拓也の深い対話は続いていた。

「人生において一番大切なのは何だと思いますか？」美咲は拓也に問いかけた。

拓也は少し考えてから答えた。

「自分らしく生きることでしょうか。そして、その自分を愛してくれる人と出会うこと」

美咲の胸がじんわりと満たされた。

「私もそう思います」美咲は窓の外の風景を見つめた。「そして今、私はその両方を手に入れることができました」

拓也の手が、そっと美咲の手に重ねられた。美咲は驚かず、自然にその温もりを受け入れた。

「僕もです」拓也の声に深い感謝が込められていた。「あなたに出会えて、僕の人生も本当に変わりました」

電車は次の駅へ向かって走り続ける。窓の外では、新しい季節の始まりを告げるように、桜のつぼみが膨らんでいた。

美咲の心に、最後の独白が響いた。

『真の恋は、自分らしくいられる場所で、静かに花開く。それは遠い世界の物語ではなく、ほんの少しの勇気があれば、すぐそばで見つけられるものなのだ』

二人を乗せた電車は、夕日に向かって静かに走り続けていく。新しい人生への扉が、今、確かに開かれていた。