恋はもっと、すぐそばに
第8章 本当の自分か、偽りの平和か
月曜日の朝、編集部の会議室には重い空気が漂っていた。編集長が資料を配りながら、いつもより真剣な表情で口を開く。
「来月号から新企画を始める。『現代女性のリアルライフ』特集だ」
美咲の心臓が跳ねた。まさに自分が書きたいと思っていたテーマに近い。
「この企画の担当を、美咲ちゃんに任せようと思う」編集長の視線が美咲に向けられた。「君に期待してるからな」
周囲の同僚たちから「おお」という小さなどよめきが起こる。田中が美咲に向かって小さく親指を立てた。美咲の胸に期待と責任感が混じり合った感情が湧き上がる。
「ありがとうございます」美咲は立ち上がって深く頭を下げた。「頑張ります」
しかし、編集長の次の言葉で美咲の表情が曇った。
「ただし、読者が求めるものをしっかり把握してくれよ。恋愛、結婚、美容……この三つを軸にした内容で頼む」編集長は指を三本立てた。「女性が本当に知りたいのはこういうことだから」
美咲の心の中で何かがきしんだ。恋愛、結婚、美容。またその枠組みなのか。
デスクに向かった美咲は、企画書のタイトル欄に「現代女性のリアルライフ特集」と書いた。しかし、手がそこで止まってしまう。
「恋愛、結婚、美容……」
編集長の言葉が頭の中で繰り返される。美咲はノートの端に、本当に書きたい内容を書き出してみた。
「女性の社会進出における心理的葛藤」「仕事と自己実現のバランス」「現代女性が抱える内面的な孤独感」……。
でも、これらの内容を企画書に書いたら、また「硬すぎる」と言われるだろう。美咲の指先が震えた。
「私はどうすればいいんだろう」
昨日のあの人との会話が蘇る。「あなたの知性と深い思考を、どうか大切にしてください」。その言葉が心の奥で小さく光っている。でも、現実は厳しい。
美咲は立ち上がって、トイレに向かった。鏡に映る自分の顔は疲れ切っている。
「本当の自分を出したら、きっと批判される」美咲は鏡の中の自分に向かってつぶやいた。「でも、偽りの自分でいることに、もう疲れた」
心の中で二つの声が激しく戦っている。
「無難に行けばいい。編集長の期待に応えて、評価を得ればいい」
「でも、それは本当にやりたいことなの? 読者だって、もっと深い内容を求めている人がいるかもしれない」
火曜日の午後、美咲は編集長のデスクに向かった。一晩中考え抜いて作り上げた企画書を手に握っている。
「編集長、昨日の件の企画書ができました」
編集長は資料から顔を上げた。「おお、早いな、見せてくれ」
美咲は企画書を差し出した。タイトルには「現代女性の自己実現と社会的圧力──真のリアルライフを探る」と書かれている。
編集長の眉がゆっくりとひそめられていく。ページをめくる音だけが静寂を支配した。
「美咲ちゃん……」編集長の声に困惑が混じっている。「これは……また同じことの繰り返しじゃないか」
美咲の鼓動が早まった。でも、今度は引き下がりたくなかった。
「でも、編集長。女性読者の中にも、こういう深い内容を求めている方がいると思うんです」
「君はまだ分からないのか?」編集長の声が少し高くなった。「読者アンケートを見たろう? みんな軽い内容を求めてるんだ」
「でも、それは選択肢がそれしかないからじゃないでしょうか」美咲は勇気を振り絞った。「もし違う選択肢があったら……」
「美咲ちゃん!」編集長の声が響いた。「君は読者を馬鹿にしてるのか?」
美咲の体が震えた。「そんなつもりは……」
「女性はファッションや恋愛に興味があるんだ。それが現実だろう」編集長は企画書をテーブルに叩きつけた。「君みたいに難しいことばかり考えてる女性は珍しいんだよ」
水曜日の朝、美咲がオフィスに入ると、いつもと違う空気を感じた。同僚たちの視線が妙によそよそしい。昨日の編集長との口論は、予想以上に周囲に知れ渡っているようだった。
「おはようございます」美咲が挨拶をしても、返事は以前より小さく、そっけない。
コピー機の前で、先輩女性編集者たちがひそひそと話している声が聞こえてきた。
「美咲ちゃん、また反抗してたらしいわよ」
「あの子、最近生意気になったわよね」
美咲の足が止まった。聞こえないふりをして通り過ぎようとしたが、さらに痛い言葉が続く。
「知的ぶってるけど、結局空回りしてるだけじゃない」
「編集長も困ってるみたいよ。使いにくいって」
美咲の胸が締め付けられた。手に持った資料が震える。
昼食時間、美咲がいつものように食堂に向かうと、普段一緒に食事をする同僚たちのテーブルが満席だった。いや、本当は席はあるのに、誰も声をかけてくれない。
「あ、美咲ちゃん」一人の同僚が気づいて振り返ったが、すぐに目を逸らした。「私たち、急いでるから……」
結局、美咲は一人で隅のテーブルに座った。周囲の楽しそうな会話の声が、かえって孤独感を際立たせる。
木曜日はさらに厳しかった。企画の進捗を聞かれるたびに、美咲は曖昧な返事しかできない。本当に書きたい内容と、求められている内容の間で揺れ動いているからだ。
夕方になっても、企画書は一行も進まなかった。美咲は何度もペンを持ち上げては、また置くということを繰り返す。
「編集長の期待に応えるべきか、それとも自分の信念を貫くべきか」
「大丈夫? 顔色悪いよ」田中が心配そうに声をかけてきた。唯一の理解者である田中の優しさが、かえって美咲の心を揺さぶる。
「大丈夫です」美咲は作り笑顔を浮かべた。「ちょっと考えすぎてるだけで」
しかし、田中も忙しく、長く話している余裕はない。結局、美咲の孤独は深まっていく。
「私は……私は間違ってるのかな」美咲は自問した。
でも、心の奥では答えは決まっていた。あの人の言葉を思い出すたびに、本当の自分でいたいという気持ちが強くなる。今度こそ、意味のある記事を書きたい。たとえ批判されても。
木曜日の夜、美咲は自分のアパートで鏡の前に立っていた。そこに映るのは、見たことのないほど疲れ切った自分の顔だった。
「このまま偽りの自分で生きていくのか、それとも本当の自分を貫いて孤立するのか」
美咲は鏡に向かって静かにつぶやいた。人生の重要な分岐点に立っている実感があった。
机の上には、まだ白紙の企画書が置かれている。頭の中では「恋愛、結婚、美容」というキーワードと、自分が本当に書きたい「女性の自己実現」というテーマが激しく衝突している。
「私って、どうして普通に生きられないんだろう」
涙が頬を伝った。長い間押し殺してきた感情が、ついに溢れ出してしまう。
「でも……でも、これが私なんだ」
涙を拭いながら、美咲は小さく首を振った。いくら周囲に否定されても、考えることをやめることはできない。それは美咲にとって呼吸と同じくらい自然なことだった。
金曜日の夕方、美咲はいつものホームで電車を待っていた。しかし、今日の彼女はいつもと明らかに違っていた。肩は落ち、表情は暗く沈んでいる。手に持ったスマホの画面も、ただぼんやりと眺めているだけだった。
電車が滑り込んでくる。いつものように、あの人が同じ位置に座っているのが見えた。美咲の心が少しだけ軽くなるが、すぐに重い現実が心を覆った。
「こんばんは」
拓也が、いつものように温かい笑顔で声をかけた。しかし、美咲の返事はいつもより小さく、元気がない。
「こんばんは……」
美咲は空いていた拓也の隣に座った。拓也は美咲の様子がいつもと違うことにすぐに気づいた。彼女の表情には深い疲労と、何かに打ちのめされたような影が宿っている。
「何かあったんですか?」
その優しい問いかけに、美咲の心の防壁が一気に崩れた。これまで誰にも話せなかった全てを、この人になら打ち明けられるかもしれない。
「実は……」美咲の声が震えた。「職場で、ずっと悩んでいることがあって……」
そして美咲は、編集長との衝突、同僚たちの冷たい視線、自分の書きたい内容と求められる内容の間での葛藤、全てを包み隠さず話した。声が途切れ途切れになり、時折涙がこぼれそうになる。
「みんなに『硬すぎる』『女性らしくない』って言われるんです。私が考えすぎるから、周りに迷惑をかけてるのかもしれません」
美咲の声がかすれた。
「もしかしたら、私って本当におかしいのかもしれません。普通の女性のように、恋愛やファッションだけに興味を持っていれば、こんなに苦しまずに済むのに……」
拓也は美咲の話を深刻な表情で聞いていた。彼女の涙を見て、胸が痛んだ。このような素晴らしい人が、なぜこんなに自分を責めなければならないのか。
「美咲さん」
拓也の声は、これまでになく確信に満ちていた。
「あなたは間違っていません。絶対に」
美咲が顔を上げると、拓也の真剣な眼差しと出会った。
「むしろ、あなたを理解できない周囲の方に問題があるんです」拓也は身を乗り出した。「あなたの知性、深い思考、それらは隠すべきものじゃない。それは贈り物なんです」
「でも……」美咲の声に絶望がにじむ。「みんなに理解されないんです。孤立してしまって……」
「理解されないのは、相手の問題です」拓也は断言した。「あなたの問題ではありません」
拓也は美咲の目を見つめながら続けた。
「僕の研究分野でも、表面的で分かりやすいものばかりが評価される傾向があります。でも、真に価値のある研究は、最初は理解されないものなんです」
美咲の目に希望の光が宿り始めた。
「あなたが書きたいと思っている内容、『女性の自己実現』や『社会的圧力』について……それは現代社会が直面している重要な問題です」拓也の声に熱がこもった。「そういう深い内容こそ、今の世界には必要なんです」
美咲の涙が止まった。心の奥で、長い間封印されていた何かが動き始めるのを感じる。
「あなたの知性は、あなたの最大の魅力です」拓也の言葉が美咲の心に深く響いた。「それを恥じる必要は、一切ありません」
電車が拓也の降車駅に近づいている。彼は立ち上がりながら、最後に振り返った。
「もし迷った時は、自分の心の声に耳を傾けてください。あなたの本当の価値を分かってくれる人は、必ずいます」
ドアが開く瞬間、拓也が最後に言った言葉が、美咲の心に光を灯した。
「あなたのような人がいるからこそ、世界はより良くなるんです」
電車が動き出し、拓也の姿が遠ざかっていく。美咲は涙を拭いながら、胸の奥で何かが確かに変わったのを感じていた。
「私は……間違っていない」
初めて、心からそう思えた夜だった。
「来月号から新企画を始める。『現代女性のリアルライフ』特集だ」
美咲の心臓が跳ねた。まさに自分が書きたいと思っていたテーマに近い。
「この企画の担当を、美咲ちゃんに任せようと思う」編集長の視線が美咲に向けられた。「君に期待してるからな」
周囲の同僚たちから「おお」という小さなどよめきが起こる。田中が美咲に向かって小さく親指を立てた。美咲の胸に期待と責任感が混じり合った感情が湧き上がる。
「ありがとうございます」美咲は立ち上がって深く頭を下げた。「頑張ります」
しかし、編集長の次の言葉で美咲の表情が曇った。
「ただし、読者が求めるものをしっかり把握してくれよ。恋愛、結婚、美容……この三つを軸にした内容で頼む」編集長は指を三本立てた。「女性が本当に知りたいのはこういうことだから」
美咲の心の中で何かがきしんだ。恋愛、結婚、美容。またその枠組みなのか。
デスクに向かった美咲は、企画書のタイトル欄に「現代女性のリアルライフ特集」と書いた。しかし、手がそこで止まってしまう。
「恋愛、結婚、美容……」
編集長の言葉が頭の中で繰り返される。美咲はノートの端に、本当に書きたい内容を書き出してみた。
「女性の社会進出における心理的葛藤」「仕事と自己実現のバランス」「現代女性が抱える内面的な孤独感」……。
でも、これらの内容を企画書に書いたら、また「硬すぎる」と言われるだろう。美咲の指先が震えた。
「私はどうすればいいんだろう」
昨日のあの人との会話が蘇る。「あなたの知性と深い思考を、どうか大切にしてください」。その言葉が心の奥で小さく光っている。でも、現実は厳しい。
美咲は立ち上がって、トイレに向かった。鏡に映る自分の顔は疲れ切っている。
「本当の自分を出したら、きっと批判される」美咲は鏡の中の自分に向かってつぶやいた。「でも、偽りの自分でいることに、もう疲れた」
心の中で二つの声が激しく戦っている。
「無難に行けばいい。編集長の期待に応えて、評価を得ればいい」
「でも、それは本当にやりたいことなの? 読者だって、もっと深い内容を求めている人がいるかもしれない」
火曜日の午後、美咲は編集長のデスクに向かった。一晩中考え抜いて作り上げた企画書を手に握っている。
「編集長、昨日の件の企画書ができました」
編集長は資料から顔を上げた。「おお、早いな、見せてくれ」
美咲は企画書を差し出した。タイトルには「現代女性の自己実現と社会的圧力──真のリアルライフを探る」と書かれている。
編集長の眉がゆっくりとひそめられていく。ページをめくる音だけが静寂を支配した。
「美咲ちゃん……」編集長の声に困惑が混じっている。「これは……また同じことの繰り返しじゃないか」
美咲の鼓動が早まった。でも、今度は引き下がりたくなかった。
「でも、編集長。女性読者の中にも、こういう深い内容を求めている方がいると思うんです」
「君はまだ分からないのか?」編集長の声が少し高くなった。「読者アンケートを見たろう? みんな軽い内容を求めてるんだ」
「でも、それは選択肢がそれしかないからじゃないでしょうか」美咲は勇気を振り絞った。「もし違う選択肢があったら……」
「美咲ちゃん!」編集長の声が響いた。「君は読者を馬鹿にしてるのか?」
美咲の体が震えた。「そんなつもりは……」
「女性はファッションや恋愛に興味があるんだ。それが現実だろう」編集長は企画書をテーブルに叩きつけた。「君みたいに難しいことばかり考えてる女性は珍しいんだよ」
水曜日の朝、美咲がオフィスに入ると、いつもと違う空気を感じた。同僚たちの視線が妙によそよそしい。昨日の編集長との口論は、予想以上に周囲に知れ渡っているようだった。
「おはようございます」美咲が挨拶をしても、返事は以前より小さく、そっけない。
コピー機の前で、先輩女性編集者たちがひそひそと話している声が聞こえてきた。
「美咲ちゃん、また反抗してたらしいわよ」
「あの子、最近生意気になったわよね」
美咲の足が止まった。聞こえないふりをして通り過ぎようとしたが、さらに痛い言葉が続く。
「知的ぶってるけど、結局空回りしてるだけじゃない」
「編集長も困ってるみたいよ。使いにくいって」
美咲の胸が締め付けられた。手に持った資料が震える。
昼食時間、美咲がいつものように食堂に向かうと、普段一緒に食事をする同僚たちのテーブルが満席だった。いや、本当は席はあるのに、誰も声をかけてくれない。
「あ、美咲ちゃん」一人の同僚が気づいて振り返ったが、すぐに目を逸らした。「私たち、急いでるから……」
結局、美咲は一人で隅のテーブルに座った。周囲の楽しそうな会話の声が、かえって孤独感を際立たせる。
木曜日はさらに厳しかった。企画の進捗を聞かれるたびに、美咲は曖昧な返事しかできない。本当に書きたい内容と、求められている内容の間で揺れ動いているからだ。
夕方になっても、企画書は一行も進まなかった。美咲は何度もペンを持ち上げては、また置くということを繰り返す。
「編集長の期待に応えるべきか、それとも自分の信念を貫くべきか」
「大丈夫? 顔色悪いよ」田中が心配そうに声をかけてきた。唯一の理解者である田中の優しさが、かえって美咲の心を揺さぶる。
「大丈夫です」美咲は作り笑顔を浮かべた。「ちょっと考えすぎてるだけで」
しかし、田中も忙しく、長く話している余裕はない。結局、美咲の孤独は深まっていく。
「私は……私は間違ってるのかな」美咲は自問した。
でも、心の奥では答えは決まっていた。あの人の言葉を思い出すたびに、本当の自分でいたいという気持ちが強くなる。今度こそ、意味のある記事を書きたい。たとえ批判されても。
木曜日の夜、美咲は自分のアパートで鏡の前に立っていた。そこに映るのは、見たことのないほど疲れ切った自分の顔だった。
「このまま偽りの自分で生きていくのか、それとも本当の自分を貫いて孤立するのか」
美咲は鏡に向かって静かにつぶやいた。人生の重要な分岐点に立っている実感があった。
机の上には、まだ白紙の企画書が置かれている。頭の中では「恋愛、結婚、美容」というキーワードと、自分が本当に書きたい「女性の自己実現」というテーマが激しく衝突している。
「私って、どうして普通に生きられないんだろう」
涙が頬を伝った。長い間押し殺してきた感情が、ついに溢れ出してしまう。
「でも……でも、これが私なんだ」
涙を拭いながら、美咲は小さく首を振った。いくら周囲に否定されても、考えることをやめることはできない。それは美咲にとって呼吸と同じくらい自然なことだった。
金曜日の夕方、美咲はいつものホームで電車を待っていた。しかし、今日の彼女はいつもと明らかに違っていた。肩は落ち、表情は暗く沈んでいる。手に持ったスマホの画面も、ただぼんやりと眺めているだけだった。
電車が滑り込んでくる。いつものように、あの人が同じ位置に座っているのが見えた。美咲の心が少しだけ軽くなるが、すぐに重い現実が心を覆った。
「こんばんは」
拓也が、いつものように温かい笑顔で声をかけた。しかし、美咲の返事はいつもより小さく、元気がない。
「こんばんは……」
美咲は空いていた拓也の隣に座った。拓也は美咲の様子がいつもと違うことにすぐに気づいた。彼女の表情には深い疲労と、何かに打ちのめされたような影が宿っている。
「何かあったんですか?」
その優しい問いかけに、美咲の心の防壁が一気に崩れた。これまで誰にも話せなかった全てを、この人になら打ち明けられるかもしれない。
「実は……」美咲の声が震えた。「職場で、ずっと悩んでいることがあって……」
そして美咲は、編集長との衝突、同僚たちの冷たい視線、自分の書きたい内容と求められる内容の間での葛藤、全てを包み隠さず話した。声が途切れ途切れになり、時折涙がこぼれそうになる。
「みんなに『硬すぎる』『女性らしくない』って言われるんです。私が考えすぎるから、周りに迷惑をかけてるのかもしれません」
美咲の声がかすれた。
「もしかしたら、私って本当におかしいのかもしれません。普通の女性のように、恋愛やファッションだけに興味を持っていれば、こんなに苦しまずに済むのに……」
拓也は美咲の話を深刻な表情で聞いていた。彼女の涙を見て、胸が痛んだ。このような素晴らしい人が、なぜこんなに自分を責めなければならないのか。
「美咲さん」
拓也の声は、これまでになく確信に満ちていた。
「あなたは間違っていません。絶対に」
美咲が顔を上げると、拓也の真剣な眼差しと出会った。
「むしろ、あなたを理解できない周囲の方に問題があるんです」拓也は身を乗り出した。「あなたの知性、深い思考、それらは隠すべきものじゃない。それは贈り物なんです」
「でも……」美咲の声に絶望がにじむ。「みんなに理解されないんです。孤立してしまって……」
「理解されないのは、相手の問題です」拓也は断言した。「あなたの問題ではありません」
拓也は美咲の目を見つめながら続けた。
「僕の研究分野でも、表面的で分かりやすいものばかりが評価される傾向があります。でも、真に価値のある研究は、最初は理解されないものなんです」
美咲の目に希望の光が宿り始めた。
「あなたが書きたいと思っている内容、『女性の自己実現』や『社会的圧力』について……それは現代社会が直面している重要な問題です」拓也の声に熱がこもった。「そういう深い内容こそ、今の世界には必要なんです」
美咲の涙が止まった。心の奥で、長い間封印されていた何かが動き始めるのを感じる。
「あなたの知性は、あなたの最大の魅力です」拓也の言葉が美咲の心に深く響いた。「それを恥じる必要は、一切ありません」
電車が拓也の降車駅に近づいている。彼は立ち上がりながら、最後に振り返った。
「もし迷った時は、自分の心の声に耳を傾けてください。あなたの本当の価値を分かってくれる人は、必ずいます」
ドアが開く瞬間、拓也が最後に言った言葉が、美咲の心に光を灯した。
「あなたのような人がいるからこそ、世界はより良くなるんです」
電車が動き出し、拓也の姿が遠ざかっていく。美咲は涙を拭いながら、胸の奥で何かが確かに変わったのを感じていた。
「私は……間違っていない」
初めて、心からそう思えた夜だった。